どこのJクラブからも声が掛からず、つてで練習参加したことをきっかけに“拾ってもらった”川崎フロンターレの黄金期を築き上げ、昨年、惜しまれつつも現役を引退した日本サッカー界の“レジェンド”中村憲剛。
2001年に高卒でガンバ大阪に華々しく加入するも、22歳で現役引退。ビジネス界に転身後、起業から7年でマザーズ上場を果たした嵜本晋輔。
サッカー選手として両極端な道を歩んだ2人は、現在は同じく「セカンドキャリア」という立場に身を置き、その活躍でメディアに登場する機会も多い。今後の動向に常に注目が集まる存在だ。
意外にも初対面となる彼ら2人の対談を通して見えてきたのは、サッカーにもビジネスにも通じる、ある共通点だった。
(進行=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]、構成=REAL SPORTS編集部、撮影=大木雄介)
中村憲剛は経営者以上に「意思決定」を経験している?――冒頭から少し突っ込んだ質問になりますが、中村さんは自分自身にビジネスセンスがあると思いますか?
中村:ビジネスセンスですか。ある側面ではないと思いますし、ある側面ではあるような気はします。いや、たぶんないですね。ビジネス面はプロに任せています。
――とはいえ現役中に自身が主催するサッカースクール「KENGO Academy」を立ち上げています。
中村:いや、けどそれは周りで支えてくれる人がいるからこそ成立しています。自分一人で何かできるタイプではないので。僕はどちらかというと、好き放題発信するタイプで、それを周りがしっかりと環境を整えて道にしてくれているだけです。
嵜本:一緒です。まったく一緒です。
――嵜本さんは中村さんが現役時代にプレーで示してきたインテリジェンスがビジネスにどう生きると思いますか?
嵜本:チームのゲーム運びの中心となる選手で、ある意味、経営者的な立場で采配を振るっていたわけです。そこの状況判断はすごくビジネスと通ずる部分はあります。これから経営の世界に入られたとしても、そこの見極めや目利き力という点では、経営者以上にさまざまな意思決定を経験されてきていると思います。
中村:その点では、確かに。
嵜本:私も経営者として毎日意思決定の連続なのですが、憲剛さんもそういう状況の中で、正しい意思決定ができる方だと思います。
中村:そういう意味では、現役を引退して今は個人の仕事が多いので、自分自身をどうマネジメントするか、現役時代以上に頭を使っているところはあります。現役時代はフィールド上でプレーすることで表現できていればよかったのですが、舞台が変わって、今はピッチ外のところがメインフィールドなので。どうやって個性を埋没させないように、自分にしかできない仕事をやっていくべきか、お話をいただいたいろいろな仕事にチャレンジしながら日々模索中です。
僕がちょっと閉鎖的でピッチでのパフォーマンスを最優先してそれ以外の行動を意識的に制限していた人間だったこともありますが、正直、サッカー選手の知る世界は狭かったなと感じます。引退してから一気に視界が広がったというか、世界が広がった。現役中は、嵜本さんのような経営者の方と話をする機会なんてほとんどなかったので。
――引退して視界も人間関係も一気に広がったわけですね。そのような日々を今は楽しめていますか?
中村:毎日楽しいです。ちょっと忙しすぎるんじゃないかと周りからはよく言われるんですけど、別にそんなことないなって。何事も自分がどう思うかだと考えているので。現役時代は毎日サッカーをやっていたわけですし、その頃のほうが肉体的にも精神的にもしんどかったなと思います。
嵜本:そうですよね、絶対。
中村:どこか痛むこともないですし、現役時代に比べると全然ラクだなと感じます。
嵜本晋輔が考える、ビジネスにおいて理想なチームとは
――嵜本さんはサッカー選手としての経験が現役から離れた今に生きていると実感することはありますか?
嵜本:ビジネスもチームプレーだと考えています。どれだけ優秀なストライカーがいたとしても、守備がボロボロだと試合に勝てないように、そのチームの個々の能力を認め合って、パフォーマンスを最大化し合う組織がビジネスにおいても理想のチームです。
僕も肩書としてひとくくりに「経営者」といわれるんですけど、基本的に数字の部分はその道のプロフェッショナルに任せていて、僕が一番やりたいことであり得意なことは「事業構想」です。誰かがあっと驚くようなことをゼロイチで生み出すモチベーションしかないんですよ。僕はその役割を全うするだけです。なので、組織としてはそれ以外の役割の優秀な人材をどれだけ引き寄せられるかに注力しています。
そういう意味では、選手をどう見極めてどうやって個性を引き出せるかが、サッカーでいう監督の仕事だと思いますし、僕は今経営者としてサッカーでいう監督の立場で経営をしています。一人一人の個性を見極めて、チーム力を上げられる人間を周りにつけていく感じですね。どれだけ尖ったものを持っていても、協調性がなかったり、相手をリスペクトできない人間はチームプレーに向きません。そういう点で、サッカーにおけるチームプレーとビジネスはすごく似ていると思いますね。
中村:サッカーでもビジネスでも目指すべきゴールに向かってベクトルを合わせる時に、別の方向を向いている人がいると目的を達成するのは難しいですよね。
嵜本:会社の成長のステージに合わせて、優秀な人材が新たに入ってくるじゃないですか。その時に自信を失って人間性が変わってしまう人もいるんですよ。自分の立場を守るために、目指すべきゴールとは別の方向を向いてしまうような人もいて、それまで会社にすごく貢献してくれていた人と決別するという厳しい判断をしなければならないこともありました。それをこの2、3年、経営者という立場で勉強しましたね。
――それはサッカーでも起こり得ることですよね。
中村:そうですね。自信をつけて伸びる選手もいれば、自信をなくしていく選手もいます。そこにどうやってフォローを入れるのかはチームにとって大切なことです。現役時代の僕の場合は、同僚という立場なのでもちろん決定権はなかったのですが、チームメートとしてできることを意識的にやっていました。仲間は皆いいほうに成長してほしいと思って接してきましたし、フロンターレというクラブがよりよくなるようにと取り組んでいました。若い選手たちが積極的にチャレンジしやすい環境で、僕らベテラン選手がそれをカバーするという空気感の創出はすごく意識していましたね。
一つには決めていない方向性と、一つのロールモデル
――2人の話を聞いていると、中村さんがビジネス界でチャレンジするところも見てみたいと思わされます。同時にメディアに出ることもサッカー文化のためにはすごく意義のあることですし、当然絶対にいい監督にもなるでしょうし。とはいえ“中村憲剛”は一人しかいないわけですが(笑)。
嵜本:本当にそうですよね。現時点では進みたい方向性は定まっていないのですか?
中村:一つには決めていません。指導者も含めて、解説や普及、ビジネス、自分のアカデミーなどやりたいことはいろいろありますから。けど、体は一つしかないのであまりにも手広くやりすぎると自分が壊れてしまう。今は無理のない範囲で、とにかくあらゆることに取り組んでいます。これから先、道が一つに決まった時にやってきたすべてが経験値となって邁進(まいしん)できるような状態づくりの段階だと考えています。
――中村さんから見て、元Jリーガーで、上場企業の社長である嵜本さんはどのように映っていますか?
中村:Jリーガーの一つのロールモデルだと思います。サッカー選手のキャリアを長く続けることももちろん素晴らしいことですけど、転身後でも、サッカー選手が社会においてすごく大きな役割を果たせることを、まさに今そのモデルを示している途中なのだと思います。Jリーガーでも将来に不安を抱えている人は多いです。嵜本さんをロールモデルとすることで、選手がより安心して競技に集中できる一つの受け皿になれる可能性があると思います。
プロ入りと同時に大学入学。二足のわらじ生活は長くは続かず…
――嵜本さんはそもそも引退後どのような経緯でビジネスを学んだのですか?
嵜本:父親がやっていたリユースの会社に入社して現場で学びました。ガンバ(大阪)で3年、佐川急便(大阪SC)で1年、ちょうど大卒の同い年の人たちと同じタイミングで、最初は全然勉強もできないただのサッカー馬鹿としてビジネスの世界に飛び込みました。実は大学にも一応席はあったのですが、中退していまして。3回くらいしか行ってないんですよ。だから(最終学歴は)高卒なんです。高校の時にガンバにスカウトしていただいて、プロ入りと同時に関大(関西大学)に入学して二足のわらじの生活をスタートさせたんですけど、サッカー選手としての毎日で精いっぱいで、当時は勉強にまったく興味も持てなくて……。
中村:そこから現在に至るまでの部分にすごく興味があります。いくつかポイントがあったと思うんですよ、絶対。
嵜本:僕の場合はリユースをやりたいと熱望して入った会社ではないわけじゃないですか。たまたま父親がやっていて、兄貴2人がいた会社だったので。まずは目の前の与えられた状況をいかに楽しむかを意識しました。あとはもうサッカーと一緒です。レギュラー争いでどうやって監督に自分を起用してもらうか。チームを支えられる選手になるか。組織の中での差別化戦略、ポジショニング戦略を考えながら日々を過ごしました。
僕が入った当時の会社は地域に根差したリサイクルショップだったんです。電化製品とか家具とかオフィス用品の買取販売をやっている会社で、仕入れた商品を地域のお客さまにしか販売していなかったんです。ちょうどインターネットが少しずつ台頭してきた頃で、何やらヤフオクというのがあるぞと気付き、ピンときました。試しに一回出してみるかと社内に提案して出品してみたところ、1万2800円で売っていた冷蔵庫が1万6800円になったんです。
結局、狭いマーケットで商売をしていたら、需給は限られたものでしかないわけです。でもより需要があるところに商品を送り込むだけで4000円売値が上がったんです。それからはすべての商品の写真を撮って、店舗で売りながらヤフオクにも出品するようにしました。そうするとほぼ大半が、店頭での売値以上の価格でヤフオクで売れていくんですよ。「こんだけ差が生まれんねや」と思って、それにすごくやりがいと楽しさを感じたんです。
一時はYahoo!の上半期大賞を取っていた事業をすべて撤退
中村:競争社会で、いかに自分が個性と結果を出せるかと考え抜いた結果なわけですね。まさにサッカーにもビジネスにも通じる考え方だと思います。
嵜本:早い段階でそのことに気付けたのが、今につながっているなと思います。でもヤフオクは全盛期に全部やめたんですよ。そもそもの業態を総合リサイクル事業から、今のメイン事業であるブランド品のリユース事業に切り替えてかなりの数を売っていて、Yahoo!の上半期大賞をいただけるような会社になっていたんです。でもずっとこのビジネスモデルに自分の身を置いていたら、これは危ないなというふうに察知して、ヤフオクに出品することをやめました。
――全盛期で……。普通はできない判断だと思いますけど。
嵜本:僕たちは先行者利益で、競争率の低いところにいたから、出品していた商品が高値で売れていました。それが何やらヤフオクがもうかるらしいぞと同業者の多くが知ることになった時点で、僕たちから買う必要がなくなるわけです。今まで10点しかマーケットに出ていなかったものが数百点出始めて、自分たちの見込んでいる金額よりも下回ることのほうが多くなってきたんです。
僕はヤフオクに全部自分で出品することで人よりも早くそこに気付けたので、当時10人ぐらいいたネット事業部を解散して、買った商品をBtoB(企業間取引)のオークションを行う会社にまとめて販売するやり方に切り替えました。売りも買いもやっているとリソースが分散しちゃうので、買いにそのリソースを割いて、売りには何のリソースもかけずに売る形にしたら、そっちのほうが確実に利益が出ることがわかって、その事業構造が結果的に今の自分たちのビジネスモデルにつながっています。
改めて語る「中村憲剛が引退を決意するまで」の意思決定
嵜本:ビジネスにおいて、撤退のタイミングはすごく重要です。一方で、アスリート個人が撤退するタイミングを自分自身でどう見極めるのかはすごく難しいテーマだと思います。憲剛さんは、昨シーズン限りで引退しましたが、やろうと思えばあと5年はプレーできたはずだと思います。
中村:いや、5年はわからないですけど(笑)。
嵜本:やり続けるという選択肢もあったと思うんですよ。でもこのタイミングで、大好きなサッカーを手放す決断をした。どういう意思決定の要素があったのかすごく興味があります。
中村:いつまでやるか、30歳を過ぎた時に一度真剣に妻と話し合いました。年を重ねるとフィジカルが衰えていくと一般的にはいわれていますし。あと年俸も高いままですから、ベテラン1選手と若い選手3人が同じ金額なのであれば、チームのためには将来性のある選手のために投資するべきではないかとも考えました。そこで一つの目標として35歳までとりあえずやれたらいいよねと妻とは話をしていました。ちょうどそのタイミングで風間(八宏)さんがフロンターレの監督に就任して、その影響で僕のサッカー観もちょっと変わって。より個にフォーカスするようになったら、30歳を過ぎてもいい形で選手として伸びていったんです。33、34歳の時には、体力的にしんどいとか、動けないという状態ではなくて、むしろどんどん研ぎ澄まされていく感覚がありました。
それで35歳の時に、じゃあ次は40歳だよねって。目標の設定として5年間隔で。40歳まで続けられたらもう十分、理想的だと考えました。あとはチームの状況も35歳から40歳までの5年間で、ありとあらゆるものがそろっていたので。36歳でJリーグ・MVP、37歳で初めてリーグタイトルを獲得して、その時点でもういつでも悔いなくやめられるなと思えました。自分にとっても悲願でしたし、みんなの悲願でしたから。ファン・サポーターの方々もたぶん「中村憲剛と取る」と思っていてくれたはずです。自分でいうのもちょっと恥ずかしいんですけど(笑)。だからサッカーが嫌いになったとかではなくて、タイトルを取ったことで重荷はなくなったなという思いがありました。そこからは体の動く限り、試合に出続けられる限り、あと3年間思いっきり楽しめるなと考えていたら、2018年はリーグ連覇、2019年は(JリーグYBC)ルヴァンカップを取った。
最後と決めていた2020シーズンは何を目標にするべきかと考えていたら、前十字靭帯を切った。ああ、これはもうストーリーができたなと思いました。ケガを克服して、しっかりとした形でピッチに戻って、チームに貢献して、年末に引退する。天皇杯の優勝で締めくくれたらベストだと。そしてそれを実現できた。だから意外と今もまったく未練はないんです。選手としてやりきった感がすごくあるので。チームも僕がケガで離脱している間に、すごく強いフロンターレを見せてくれたので、もうこれは引退しても大丈夫だなと思えてすんなりと決断しました。
「俯瞰して客観的に自分を見ている」という共通点
――“中村憲剛”のいちファンとして外から見ていても想像を超える、本当にこれ以上の物語はないと思える5年間でした。ただ中村さんが2019年11月に大きなケガをしたタイミングで引退してしまうのではと考えたファンも多いと思います。
中村:ケガに関しては、39歳で前十字靭帯を切ってピッチに戻った選手はJ1では前例がないという話も聞いたので「じゃあこれは戻ったら誰もやったことがないことを実現できるな」と考えました。さらに39歳で復帰して良いパフォーマンスを見せたら、それより年下の選手たちは、一切言い訳ができなくなる。絶対できる、絶対戻れると、自分の経験を通じて伝えられるなと考えました。
嵜本:すごいですね。その状況で周りのことを考えていることがすごいです。
中村:自分がいる時だけフロンターレが強くても意味がないんです。その後もずっと強くあってほしかったので。だから少しでも選手みんなが成長するように、自分がいつやめてもチームが強くあり続けられるようにと後輩たちには常に声かけをしていました。
――嵜本さんはどのような意思決定でサッカー選手をやめようと決断したのですか?
嵜本:僕はガンバを3年でクビになって、次の年、JFLの佐川急便で1年プレーしました。佐川に入って3カ月後ぐらいに、あまりにも自分の思い描いているプレーができず、JFLでさえも通用していないのではないかと感じるようになりました。そこでサッカー選手であり続けたいという感情をいったん横に置いて、自問自答を繰り返したら、引退という言葉がポンと出てきました。
意思決定でブレる時というのは、感情や欲が覆いかぶさっていることが多いと思います。僕はまさに22歳の時に、俯瞰(ふかん)して自分を見ることで、ここからサッカー選手として成功する確率を冷静に分析し、3年から5年かけて時間を投資することが率直に非効率だなと感じました。もうこれは自分がただやりたいから続けているだけになってしまうなと思ったんです。その時に「今年で引退する」と決めました。その後はビジネスの世界に身を置き、とにかく自分の決めた選択を正しくすることにフォーカスし続け、今に至ります。
――2人がそれぞれ自身を俯瞰した目で客観的に見ている点に共通点を感じます。中村さんは自身を客観的な目で見るようになったのはいつからですか?
中村:みんな自分のことって俯瞰して見ていないものですか?
嵜本:見ていない人が多いと思います。
中村:そうなんですか。いや、でも自分の中で第三者をつくることを意識しないと自分のことがわからなくないですか。何かをジャッジする時に、自分の出した考えに対して「ちょっとこれはどうなの?」と引き戻してくれるもう一つの視点は常に意識しています。そういう意味では、サッカーを始めた学生時代から自分自身を評価する目はあったかもしれないですね。
<了>
PROFILE
中村憲剛(なかむら・けんご)
1980年10月31日生まれ、東京都出身。川崎フロンターレ・Frontale Relations Organizer(FRO)。久留米高校、中央大学を経て、2003年に川崎フロンターレに入団。2006年から5年連続、2018年から3年連続でJリーグベストイレブン8回受賞。2006年に日本代表にも選出され、2010年FIFAワールドカップに出場。2016年にJ1史上最年長の36歳でMVPを獲得。2017年のJ1リーグ初優勝、2018年のリーグ2連覇に中心選手として貢献。2019年11月に左膝前十字靭帯損傷という大ケガを負うも、約10カ月間の長いリハビリを経て、翌2020年8月の復帰戦でゴールを挙げるなど3度目のリーグ優勝に貢献。同年11月に現役引退を発表。2021年4月、日本サッカー協会のロールモデルコーチ、グロース・ストラテジストに就任。新著『ラストパス 引退を決断してからの5年間の記録』(KADOKAWA)が6月30日に発売。
PROFILE
嵜本晋輔(さきもと・しんすけ)
1982年4月14日生まれ、大阪府出身。バリュエンスホールディングス株式会社 代表取締役社長。関西大学第一高校卒業後、2001年にJリーグ・ガンバ大阪に加入。2003年のシーズン後に退団。2004年にJFL・佐川急便大阪SCで1シーズンプレーしたのち22歳で現役引退を表明。2007年に実兄2人と共にブランド品に特化したリユース事業「MKSコーポレーション」を立ち上げ、同年にブランド買取専門店「なんぼや」をオープン。2011年株式会社SOU(現バリュエンスホールディングス株式会社)を設立。2018年に東証マザーズ上場。現在はサポートや寄付等を目的としたスポーツオークション「HATTRICK」をはじめ、アスリートのデュアルキャリアを支える取り組みを進めている。著書に『戦力外Jリーガー経営で勝ちにいく 新たな未来を切り拓く「前向きな撤退」の力』(KADOKAWA)がある。2021年6月にを開設。