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「死んでも生き返れるんです。不死鳥のように」長友佑都、35歳を目前になお進化し続ける理由

REAL SPORTS 2021年7月14日 11時30分

いよいよ9月2日からFIFAワールドカップ・カタール大会出場を懸けたアジア最終予選が始まる。各ポジションで次々と新たな選手が台頭して世代交代が進む日本代表において、“不動の左サイドバック”として4度目のワールドカップを目指す長友佑都の存在感が一際輝きを放っている。

「日本代表が強くあるために」と自身の経験や知見を若手に惜しまず伝え、「過去大会とは比べものにならない」と思いを語るカタールワールドカップに向けて自らもさらなる進化を続ける。

歴代2位の125キャップを刻み、10年以上にわたって日本代表の左サイドに君臨し続ける、そのブレない根源とは?

(インタビュー=岩本義弘[REAL SPORTS編集長]、撮影=浦正弘)

「これが最後の試合になるかもしれない」という危機感

――今朝、「長友佑都、Jリーグ復帰か?」との報道がありました。

長友:朝のニュースを見て、僕が一番びっくりしましたよ(笑)。

――ただ、「日本人Jリーガーで歴代最高クラスとなる年俸か?」とも書かれた記事を目にして、日本最高の左サイドバックはまだまだ健在なのだと改めて痛感しました。長友選手が明治大学の選手だった頃から取材をし、節目節目でインタビューをさせてもらっていますが、まさか34歳という年齢を迎えても日本代表の一員としてバリバリやっているとは思いませんでした。

長友:僕自身、「ずっとやり続ける」と心に誓ってここまできました。

――キャリアのはじめの頃インタビューさせてもらったとき、「高校時代からカップラーメンは一切食べていない」と言ってたのを強烈に覚えています。学生時代から持っていた意識の高さが、今につながっているのかなと思うのですが。

長友:親元を離れて東福岡高校に入学した時から、カップラーメンなどは完全に控え、より健康や体調に気を遣うようになりました。当時からそういった面に対する意識は高かったと思います。

――若い頃からの意識の高さや日々の積み重ねが、30代半ばでも最前線で戦えている要因の一つなんですね。34歳という年齢で、日本代表のユニフォームを着て国際Aマッチのピッチに立っているというのはどのような感覚ですか?

長友:「ものすごい場所で戦わせてもらっている」という感謝の気持ちが、年齢を重ねるごとに高まってきています。国際Aマッチは小さな頃から憧れ続けた夢の舞台ですし、これまでも常に全力を尽くしてきました。でもこの歳になると、「いつボールが蹴れなくなるかわからない」「これが最後の試合になるかもしれない」という危機感とも向き合わなければいけなくなるんです。だからここ数年は、日本代表に招集してもらえること、その一員としてピッチに立たせてもらえることに、改めて感謝の気持ちが湧き上がってきていますね。

 試合会場に到着して、ロッカールームで全選手のユニフォームがそれぞれのロッカーにセットされている光景を見るのがとても感慨深くて。自分のロッカーに掛けられているユニフォームのエンブレムと背番号を交互に見て、ちょっと浸っていますからね(笑)。一瞬浸って、「よし! やるか!」って気持ちを高めて試合に向けて準備を進めているんです。

ともに代表を背負ってきた岡崎慎司や香川真司と交わした会話

――長友選手が日本代表に初招集された時にもインタビューをさせてもらいましたが、当時とはずいぶん雰囲気が変わりました。

長友:たぶんあの頃は、“ワクワク感”や“ギラギラ感”をかなり醸し出していたんじゃないかと思います(笑)。

――長年日本代表として活躍する中、同世代の選手が徐々に代表チームから少なくなっていく寂しさや、それに対する思いはありますか?

長友:やはり、同世代の選手の頑張りを見ることで僕も刺激をもらい、「負けてたまるか!」という気持ちでトレーニングに取り組んでいるところはありますからね。この1、2年は、「同世代の選手からエネルギーや活力をもらうことで自分も頑張ることができていたんだな」と改めて感じています。

――同世代の選手たちとは日本代表についてどんな話を?

長友:(本田)圭佑はすでに代表を引退していますが、岡崎(慎司)や香川(真司)とは、「また一緒にやろう!」「代表に呼んでもらえるためにまだまだ頑張る!」という会話をしています。


日本代表における立場や存在が変わり、生まれた“長友塾”

――日本代表に初めて招集された頃と現在では、チーム内における立場や存在が大きく変わりましたよね。森保監督が率いる今の代表チームでの役割についてはどのように考えていますか?

長友:正直なところ、これまでは“自分の活躍”に重きを置いていた部分もありました。代表チームでの立ち位置、自分のキャリアアップに関して、「自分自身が結果を残さなければこの先はない」という思いがかなり強くあったんです。でも今は、「日本サッカー界の発展のために、日本代表が強くなるために、自分の経験を精いっぱい伝えていきたい」という気持ちを強く持っています。

 すべての選手がライバルですから、仮に自分のことだけを考えていたら、これまでの経験に基づいたアドバイスやレクチャーなんて絶対しませんよね(笑)。でも今はそうではなく、“日本代表が強くあるために”というテーマのもと、自分の経験や知見をチームメートとなる選手たちにできる限り伝えていきたいと考えています。

――代表チームの中でのそういった姿勢や言動が、“長友塾”と名付けられました。

長友:コロナ禍においては、宿舎内の部屋の行き来もできませんし、従来は設置されていたリラックスルームもありません。だから、ウォーミングアップやクールダウンのランニングの時間などを通して、できるだけ多くの選手とコミュニケーションを取るようにしています。

堂安律、久保建英、鎌田大地……、“ギラギラ”を感じる若手選手

――長友選手が若い頃は、当時海外でプレーしていた選手にさまざまなことを質問していました。今の若手は長友選手にどういった話を聞いてくるんですか?

長友:若い頃の僕みたいに、貪欲に聞いてくる若手はいませんね。

――ということは、今は“お節介おじさん”のようなスタンスで?(笑)

長友:まさにそうなんですよ(笑)。でも、すごく真剣に聞いてくれますし、やはり日本代表に呼ばれるレベルの選手たちなので、それぞれ意識がとても高い。ただ、若手時代の僕と比べたら、“ゴリゴリ”した雰囲気がないなと。当時の僕は、俊さん(中村俊輔)のような偉大な選手たちにガンガン突撃していきましたからね。最近の若手にそういう雰囲気はないなと感じます。

――その中で、いい意味で「変わっているな」と感じる選手を挙げると?

長友:(堂安)律はやっぱり“ギラギラ”した感じを持っていますよね。あと、(久保)建英も積極的に話を聞いてくるし、ちゃんと自分の意見を主張することができますね。鎌田(大地)にも似た雰囲気があって、昔の自分のような“ゴリゴリ”“ギラギラ”した感じが見られます。

――長友選手たちの活躍によって世界との距離が近くなり、その影響で「海外でプレーすることは当たり前」というメンタルを持つ世代とは、話していてやはり感覚的な違いがありますか?

長友:それはものすごくありますね。海外のクラブの目線で考えても、当初はやはり偏見があったと思います。「日本人選手がどこまで活躍できるんだ?」と、多少なりともナメられていた部分もありました。そういった状況を多くの選手の活躍によって打ち破り、「日本人選手もやるな」という認識が浸透したからこそ、今では海外リーグにチャレンジしやすい環境が整いつつあります。日本人選手に対する評価、日本人選手が海外に臨む際のスタンスは、この十数年でずいぶん変わりましたよね。

――今の若手選手たちにも、海外志向は感じられますか?

長友:それはありますね。海外志向が強く、どの国でもいいからチャレンジしてみたいという雰囲気を感じます。僕としても、若い選手たちには「日本で活躍したいのか? それともヨーロッパで活躍したいのか?」と問い掛けることもあります。もし後者を臨むのなら、できるだけ早くその土俵に立つことは大事だぞと。そのほうがステップアップのスピード感が高まりますからね。

――ここ数年では、Jリーグを経由せずに海外へ挑戦する選手の数も増えてきました。

長友:もちろん、Jリーグでのプレー経験なく海外に行っても活躍できる選手はいるでしょうし、僕のようにJリーグである程度経験を積んでからヨーロッパへ渡るパターンもあります。その選手にとって何が正解かは分かりませんが、Jリーグで持てる力やその存在をしっかり示せるようでないと、海外で活躍することは難しいのではないかと思います。“トップ・トップ”を目指すような選手ならなおさらですね。


「たぶん僕は、死んでも生き返れるんですよ。不死鳥のように」

――長友選手は2010年7月にイタリアへ活躍の場を移して以来、10年以上にわたってヨーロッパの最前線でプレーし続けています。自分自身を見た時に、長友佑都という選手はなぜこれほど長くヨーロッパで活躍を続けることができていると思いますか?

長友:なぜなんでしょうね……? 覚悟や信念を持つことや、腹をくくるといった感覚が、もしかしたら他の人とは違うのかなと思います。どのチームにいても、いいこともあればよくないこともあります。例えば、試合に出られないこと、ミスをして批判されることなど、いろいろなケースに直面します。それでも、僕は本気で腹をくくっているので、何があっても「もう一度やってやろう」と立ち上がり、前を向くのが早いのではないかと思うんです。

 もちろん、怖さを感じたり、不安になることもありますし、怒ることだってあります。それでも、目の前で起きていることを受け止め、自分の中で消化して、もう一度前に向かおうとするスピード感が僕の長所なのかなと。多くの人が1週間、時には1カ月くらいかけてくよくよ悩むところを、僕は1日で前を向いて走り出していける。この僕の特長が、ヨーロッパでのキャリアを積み重ねることに大きく影響したのではないかと思います。

――困難な局面を素早く乗り越えられる力は、アスリートにとって欠かせない要素ですね。

長友:たぶん僕は、死んでも生き返れるんですよ。不死鳥のように(笑)。そのくらいのしぶとさを持っていると自覚しています。

――とてつもなくへこんだことや、切り替えるのに時間がかかったことは?

長友: 2014年のブラジルワールドカップの後はけっこうしんどかったです。あの大会にフォーカスを当てて4年間準備していたので、グループリーグで敗退した後はけっこう切り替えるのが大変でした。まあ、そうはいっても、しっかり切り替えてここまでやってきました。

――コンディション面でも、昔以上にケガの予防やパフォーマンスの向上をより強く意識してさまざまな食事法やトレーニングに取り組まれている印象です。

長友:実際、ここ数年はケガをする回数がかなり減りました。今年3月に肉離れをしてしまいましたが、この5、6年でケガをしたのはその一度だけでした。それまでは年に2回ほどケガをして悔しい思いをしていましたから、新しい食事法を取り入れ、ケガの回数を抑えられたことはとても大きいです。

――9月からはカタールワールドカップに向けたアジア最終予選が始まります。長友選手にとって4度目のワールドカップに向けた思いを聞かせてください。

長友:カタールワールドカップに懸ける思いは、これまでの大会とは比にならないくらい大きなものがあります。

――カタール大会が、長友選手にとって最後のワールドカップになるのでしょうか?

長友:そのつもりでやっています。その先のことは全く考えていませんし、2022年に向けてすべてを費やしながら準備をしています。過去3大会とは比べものにならないくらいの大きな思いとともに、これからもしっかりと前に進んでいくつもりです。

<了>






PROFILE
長友佑都(ながとも・ゆうと)
1986年9月12日生まれ、愛媛県出身。東福岡高校を卒業後、明治大学に入学。大学在学中の2008年にFC東京とプロ契約。プロ1年目にはJリーグ優秀選手賞と優秀新人賞をダブル受賞し、日本代表にも初選出。2010年7月にイタリア・セリエAのチェゼーナに移籍。2011年1月、インテル・ミラノへの移籍が決まり、2017-18シーズンまで主力として活躍。2018年1月、トルコ・スュペル・リグのガラタサライSKに移籍し、リーグ連覇に貢献。2020年8月、オリンピック・マルセイユに移籍。2021年7月にマルセイユ退団が発表された。日本代表では2010年FIFAワールドカップ・南アフリカ大会、2014年ブラジル大会、2018年ロシア大会と3大会連続で全試合フル出場を果たしている。

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