元横浜DeNAベイスターズの田村丈が、アメリカンフットボールへの挑戦を決めた。現役の4年間で1軍登板は1試合だけ。はたから見れば、決して“成功”とはいえないプロ野球人生だったが、当の本人は「後悔はまったくない」と言い切る。その理由は、無名だった大学生時代に留年してまでプロを目指して狭き門をくぐってみせた、並外れた“ある力”と関係があるのかもしれない――。
(取材・文=石塚隆、写真提供=横浜DeNAベイスターズ)
田村丈には他の選手にはない波乱と魅力にあふれている「まさか自分がアメリカンフットボールをやるとは考えてもいませんでした。ただ、お話をいただいた時は驚きと同時に、これがラストチャンスかもしれない、この機を逃したら一生後悔して生きていくのかもしれないと思ったんです」
7月5日に社会人アメリカンフットボールチーム『イコールワン福岡SUNS』に入団した田村丈は確信を込めた表情でそう語った。
ほぼ無名の選手だった。田村のことを横浜DeNAベイスターズに所属していた元プロ野球選手だと知っているのは、ファンや野球に詳しい人たちだけだろう。同じDeNAに所属し、偶然にもアメリカンフットボールへと転向する元キャプテン・石川雄洋のようなスターでもなければチームの勝利に貢献した選手でもなかった。ただ、その生きざまや“突破力”は、他の選手にはない波乱と魅力にあふれている。
関西大北陽高から関西学院大と進んだ学生時代、田村はほぼ知られることのない野球選手だった。大学時代はピッチャーとして9試合に登板したものの、けががあり満足にプレーすることはできなかった。しかし田村には「プロ野球選手になりたい!」という強い思いがあり、4年生の時にDeNAと広島東洋カープの入団テストを受けている。
「結局、落ちてしまい野球を諦めようとしたのですが、その後、ベイスターズのスカウトの八馬(幹典)さんに『来年もう一度、テストに挑戦しないか?』と声を掛けられたんです。そこで再び燃えてきたというか、また頑張ってみようって」
留年したところで合格の保証はない。それでも「不安はまったくなかった」DeNAが目をつけたのは、50mを5.6秒で走る田村の高い身体能力だった。とはいえ球団側いわく、来年再びテストを受けたとしても絶対に合格できる保証はないという。だが田村は大学を留年し、トレーニングをしながらテストに備えた。不安はなかったのかと問うと、田村は自信を持って言うのだ。
「その時はなぜかプロ野球選手に絶対になれるという自信があって、不安とかまったくなかったんですよ。駄目だったらどうしようとか、まったくなかったし、根拠のない自信があったんですよ」
そう言うと田村はうなずいた。
「小さな時から、根拠はないけど絶対に大丈夫、みたいな感覚があるんです。よく母親から『その自信はどこから来るの?』って言われていましたからね」
苦笑しながら田村はそう言ったが、こういったメンタルの持ち主は時に限界を超え、自分を望む場所へと連れていくことがある。田村は2度目の入団テストに合格し、2015年の育成ドラフト3位で晴れてDeNAに入団をした。
4年間のプロ野球人生で、今でも鮮明に覚えているあの光景
だが、ここからが大変なのもプロ野球の世界。育成契約から支配下登録ならず道半ばで球団を去る選手は毎年のようにいる。DeNAは過去、国吉佑樹や砂田毅樹らが育成から支配下になっているが、彼らは高卒だったこと、また地方レベルでは結果を残していた存在だった(国吉は今年6月にロッテへトレード移籍)。
一方、田村はまったくの無名かつ、大学を1年留年しての入団であり、状況的にハンデが多かった。結果、入団して2年目までは鳴かず飛ばず。3年目の2018年には球団から野手転向の打診もあったが、ここで運命の出会いをする。ファームのピッチングコーチに経験豊富な川村丈夫と大家友和が就任したのだ。両コーチは田村の高いフィジカルに着目し指導を行うと劇的に球速が上がり、ストレートは150キロを超えるようになった。変則的なトルネード投法から繰り出す速球とキレのあるフォークを武器に田村は覚醒し、リリーバーとしてファームで好成績を残すと、7月末に念願だった支配下登録を勝ち取った。またもや田村の“突破力”が発揮された場面だった。
「正直、やっとかという思いはありましたが、ようやくスタートできるなといった感じでしたし、もっと頑張ろうって」
1軍での出番は早くも訪れ、8月1日の巨人戦(横浜スタジアム)でデビューを果たす。ビハインドの9回表に満員のハマスタのマウンドに上がった。
「今でもあの風景は鮮明に覚えています。例えると自分がアニメの世界に入り込んで、主人公になった気分でした。ブルペンでは全然ストライクが入らなかったのですが、いざマウンドに上がると緊張せず投げることができました」
カクテル光線を浴びながらのピッチング。1人目のバッターは後にチームメートとなる中井大介であり、これをショートフライに切って取っている。結局、3安打され2失点するのだが、心に深く刻まれた記念すべき一夜だった。
「現役生活は楽しかった?」の質問に…偽らざる本音しかし、田村が1軍で爪痕を残したのは後にも先にも、この一度きりだった。その後ファームに落ちると1軍に再昇格することなくシーズンを終え、翌年はファームで炎上を繰り返し、2019年シーズンをもって戦力外となった。
なぜ調子を崩してしまったのか、田村は冷静に振り返った。
「当時、さらに球速を上げようとウェイトトレーニングに取り組んでいたんですが、徐々に上半身と下半身のバランスが悪くなっていき、結局修正できぬまま、戦力外を言い渡されたんです」
稀有(けう)な経歴を持つ田村のプロ野球選手としての旅は、これで終わった。1軍での登板は、ただの1度。決して成功とはいえない結果であり、そこに選手として後悔はなかったのか。
「それはまったくありませんでした。自分の一番いい状態の時、1軍に定着できませんでした。あれ以上のものは、もうつくり上げることができないと自分の中に限界を感じていたので、戦力外になった時は野球はもういいかなって割り切ることができました。やり切ったなって」
前例のない道を歩んできた田村は、爽快な表情でそう語った。プロ生活4年、通算成績は1試合1イニング、防御率18.00。「DeNAでの現役生活は楽しかったですか?」と聞くと田村は「そうですね」と、初めはうなずいたが、次の瞬間かぶりを振った。
「楽しかったけど、やっぱりつらかったというのはありますね……」
活躍する選手はごく一部。言うまでもなく、多くの選手がスポットライトを浴びることなく球界を去っている。
「プロ野球選手は外から見たらいい生活しているように見えますけど、成功よりも失敗の方が多い毎日が勝負の世界。ただそこで諦めることなく頑張れたし、いろいろなことを乗り越えて納得いくところまでできたので、精神的には強くなったと思いますね」
自分に正直に向かい合い、戦い抜いたプロ野球での日々。強靭(きょうじん)なフィジカルと研ぎ澄まされたメンタルを身に付けた田村に、思いがけぬ場所から新たなキャリアが開くことになる。
<了>
PROFILE
田村丈(たむら・じょう)
1992年11月20日生まれ、兵庫県出身。関西大北陽高、関西学院大を経て、2015年ドラフト育成3位で横浜DeNAベイスターズに入団。2018年に支配下登録、1軍デビューを飾る。2019シーズンをもって現役を引退し、同球団でジュニアスクールの指導者として過ごす。2021年7月、アメリカンフットボール社会人リーグのイコールワン福岡SUNSへの加入を発表。新たなサードキャリアの挑戦を始める。