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バレー・福澤達哉が明かす、引退と東京五輪。「悔しくないといえば嘘になる。子供達に…」

REAL SPORTS 2021年7月23日 8時0分

東京五輪を前に、オリンピックに挑み続けた一人の選手がユニフォームを脱いだ。35歳のアウトサイドヒッター、福澤達哉。大学4年で出場した2008年北京五輪で1勝もできなかった悔しさや経験を、次のオリンピックにつなごうとしたが、2012年ロンドン、2016年リオデジャネイロは最終予選で敗れ、出場すらかなわなかった。それでも海外リーグで腕を磨き、プレースタイルを変えながら、世代交代の波にあらがい、ずっと日本代表で戦い続け東京五輪を目指してきた。

しかし最後の最後、6月21日に発表された東京五輪メンバー12人の中に、福澤の名前はなかった。そして7月14日、現役引退を発表。現役最後の舞台となったネーションズリーグでは、どんな思いを抱いて戦ったのか。そして、盟友・清水邦広に、12人に託す思いとは。

(インタビュー・構成=米虫紀子、写真=Getty Images)

「自分が東京五輪でプレーしないとわかった時点で」考えたこと

――現役生活、お疲れさまでした。引退記者会見から数日たった今のお気持ちを聞かせてください。(※本インタビューは7月17日に実施)

福澤:引退しますと発表してから、自分のSNSなどを通じて、僕が思っていた以上に自分の引退を悲しんでくれる方がこんなにいるんだと、すごく感動しました。

 現役生活は自分自身に対する挑戦で、アスリートとして何ができるのか、自分の限界がどこにあるのかを見てみたい、という思いが大前提としてありました。でも自分たちだけではスポーツは成立しません。アスリートは、応援してくださる方がいてこそ。改めて、これまで自分が一生懸命やってきた姿は、ファンの皆さんに届いていたんだなと。今回たくさんの方に「引退しないでほしい」という声だったり、ありがたい言葉をいただけて、選手として、こうして惜しまれながら引退できるのは、これほど幸せなことはないと感じています。

――5月末から6月末までイタリアで開催されたネーションズリーグが、現役最後の大会となりました。3試合を残した状態で、大会中に東京五輪メンバー12人が発表されましたが、落選を知らされた後に戦った最後の3連戦(ブルガリア、スロベニア、アメリカ戦)は、どのような思いで臨まれたのですか?

福澤:僕の中では、どこで終わってもいいように、その年その年、覚悟を決めて臨んでいましたし、(選考は)自分が操作できるところではありません。当然、オリンピックに行けないとなって、夢が断たれた動揺やショックがなかったといえば嘘になります。ただ、僕個人として、こと試合に向かう、練習に向かう、バレーボールに向かう、そこに関しては、その瞬間瞬間にすべてを懸けてやってきました。そのスタイルは何が起きても崩さないというのは、これまで一番意識してきました。だから、その時のベストなパフォーマンスを出せるようにしっかり気持ちをつくるところだけは、最後まで貫き通すという気持ちで、最後の3戦も、同じように入るようにしました。

 できていたかどうかはわからないですけど(苦笑)、それはポリシーというか、自分の中の信念としてやり続けてきたところなので、そこは最後まで、終わる瞬間まで、変えてはいけないなという思いは自分の中にありました。

――結果的にスロベニア戦第1セット途中からの出場が、最後のプレーになりました。

福澤:そうですね……。実は自分が(東京五輪の12人から)外れるということを、ガイチさん(中垣内祐一監督)とフィリップ(・ブランコーチ)に宿舎で聞いた時に、一つ、チーム側から提案があって……。僕は東京五輪が終わったら引退する、そこへの挑戦が終わったら引退すると、ガイチさんやフィリップたちに伝えていたので、おそらくそこを考慮してくれてのことだと思うんですけど、スロベニア戦を、現役最後の引退の舞台として、先発でいってもらおうと思う、というオファーがあったんです。

 そういう配慮をしていただけるのはすごくありがたいことで……。ただ僕の中で、チームが向かっているのはあくまでオリンピックであって、僕自身も、そこでどれだけの結果を残せるのかを考えてやってきた。日本として、北京五輪以来、久しぶりに出られるこの東京五輪で結果を残すことが、その先のバレー界にとっても非常に重要なことであると常に頭に入れながらやってきていました。だから、一瞬一瞬、すべてをそのために使ってほしいというのが、僕の中の強い思いとしてありました。

 自分が東京五輪でプレーしないとわかった時点で、そこからは選ばれた12人が、残された時間でオリンピックのために何をしなければいけないかにフォーカスすべきだと僕は思いましたので、それをチーム側に伝えました。その上で、もしチャンスがあるのであればきちんと準備はさせてもらいます、ということを伝えて、最後の3戦に臨んでいました。

 そうした中で、(スロベニア戦の)第1セットの、ちょっと点差が離れて(4-10)、チームの中で切り替えが必要だというところでコートに送り込んでいただけた。そういうチャンスをいただけたことはすごくありがたいことでした。ただ、あそこで現役の最後に、コートに立たずに終わったとしても、僕の中でそこに対する悔いはないです。その瞬間瞬間を最後だと思ってやってきたので、最終的に、引退する時にコートにいようがいまいが、それが自分が歩んできた道の終着点だと受け止めていました。

「悔しくないといえば嘘になる。子どもたちに…」

――落選を伝えられた時点で、12人のためにという、そういう決断ができたとは……。

福澤:自分は(リオ五輪後の)この5年、東京五輪に向けて、どこでアピールしないといけないのかを考えてきました。リオ五輪が終わった後に、一度、自分を客観的に見てみたんです。4年後、若い選手と、東京五輪を34歳で迎える選手と、どっちを選ぶか。しかも五輪最終予選がない中で、どちらを選ぶかと考えた時に、僕(が監督)だったら若い選手を選ぶよなって(笑)。

 だから一度は、リオの後に引退することも考えた。でも清水に「もう一回やろうや」という言葉をもらって、もう一度五輪を目指すと決めた時から、じゃあ自分が示していかないといけないのは何かと考えてきた。当然、高いパフォーマンスでチームに貢献しないといけないんですけど、若い選手が台頭してくる中、パフォーマンスや身体的な部分だけでは残れない。プラスアルファの部分をどれだけ見せていけるかに重点を置きました。目の前の一瞬一瞬が最後だという姿や、危機感というものが、少しでもチームに伝わればいいなと。このスタンスだけは貫き通すという思いでやってきました。

 プロフェッショナルとしての覚悟を持って、人生を懸けて戦ってきましたし、そうしたすべてを評価された上で、「この選手を使いたい」と思わせることが僕の仕事です。そういう基準からすると、(スロベニア戦で先発するという)オファーを受け入れることは、少し外れてしまうのかなと。だから別に僕の中で、自分を犠牲にしたという感覚はないんです。

 あの時点でそういうオファーをしていただけることに驚きもありましたし、本当に感謝しかない。僕の立場であったり、バックボーンを考えてオファーしてくれたスタッフの意図は感じましたし、だからこそこちらもこれまで進んできた歩み方に真正面に向き合って、自分としての答えを出さないといけないなと意識して、そういう答えを出しました。

――東京五輪に向けて一瞬一瞬に懸けてやってきたけれど、そこに行けないと告げられた時の思いというのは……。

福澤:悔しくないといえば嘘になります。そこに向けていろいろな挑戦をさせてもらってきて、会社にバックアップしてもらってフランスリーグに2年間行ったり、家族にも、自分以上に負担をかけていたかもしれないし、共に戦ってくれているという意識も当然ありました。それに対して、結果で報いなければいけないという思いは強くあったので。

 やっぱり頑張ってきたその努力に対して、きちんと成果につながるんだよと、子どもたちにも見せたかったですし。「なんでお父さんは、わざわざフランスにまで2年間も行ったんだろう?」って、たぶん感じていたと思う。オリンピックに出られれば、その瞬間のためにこれだけのことをやってきたんだよ、と言える。説得力があるじゃないですか。会社に対してもそうです。「なんであの選手をフランスに送ったんだ」ということに対して、一番わかりやすいのはやっぱり結果で示すこと。だから、それができなかったという、その1点に対しては、今でもすごく悔しいですし、結果につなげられなかった自分に対するふがいなさも当然感じます。

 ただ、この5年間を振り返った時に、1年1年、本当に自分が取れるベストな選択をしてきましたし、一瞬一瞬に自分のすべてをぶつけてやってきた。なんというか、オリンピックが本当にもう目前に迫っているこの(最終選考の)場まで、よくたどり着けたなという思いがあって。

 ロンドン、リオと2大会、五輪の出場権を逃して、僕はその中心にいた。北京の時の思いをつなげることが、自分の一番の使命だと思ってやってきて、それができなかった。そこから「もう一度」と、東京を目指してきたんですが、自分のこの5年間というのは、常にオリンピックが見えていたわけではないんです。

 本当に、どこまでできるんだろう?何ができるんだろう?とただひたすらに、目の前のことだけに集中してやってきた5年間で、そういうふうに走り続けてきたら、(東京五輪に)もう少しで手が届くかもしれないところまで来ていた。それが正直な感想なんです。なので、「ずっと手中にあったものが、手から滑り落ちた」という感覚はまったくなくて。ゴールに向かって一生懸命走ってきたけど、最後の最後でつまずいてしまった、という感覚のほうが近いですね。

盟友・清水邦広への思い「あいつが乗り越えてきた困難は僕の比じゃない」

――同い年の盟友、清水選手にはどのように伝えたのですか?

福澤:ガイチさんとフィリップに部屋に呼ばれ、代表から落選したと聞いて、その足で清水の部屋に行って、「ちょっと来て」と自分の部屋に呼びました。僕自身もそうですし、清水もそうだと思いますけど、それまでのネーションズリーグでの起用方法や出場時間を見て、まあ、覚悟していた部分はあって。だから結果に対する驚きとかはおそらくなかったと思います。

 その時はそんな、何か語り合ったというわけではなかったんですよ。僕が「落ちたわー」っていう話をして、「マジか」っていう清水の返答があって、そこからちょっと、沈黙があって……。で、清水が、「一緒にやりたかったなー」って。

 これまで一緒にやってきて、北京五輪から、そのバトンを(ロンドン、リオで)次につなげられなかったという思いを常に隣で共有してきた、本当にまれな、貴重な仲間。だからこそ、2人で最後、笑って終わりたいという思いはお互い持っていたと思う。なので、それが実現できずに終わってしまう、自分たちが思い描いていたところにたどり着けなかったことに対するショックがデカかったのかなと感じます。

 でも僕としては、清水が残ってくれたということの喜びも同時にあって、それは純粋にうれしく思いました。あいつの、誰よりも大きな挫折(右膝の大ケガ)を間近に見てきた。あいつが乗り越えてきた困難の大きさは、全然僕なんかの比じゃない。だから本当に「よく戻ってきたなー」と、「よくここまでたどり着けたなおまえ」っていう、そっちの喜びが半分あったので、「おまえはしっかり頑張れよ」っていうことだけは、伝えました。

「スキルの部分はずっと、コンプレックスだった」

――五輪に臨む西田有志選手も、「いろいろなアドバイスをもらっていたので、福澤さんがいないのは心細い」と話していました。気にかけて助言していたんですか?

福澤:そうですね、自分ができることは何だろう?と考えて。ただ僕は、テクニックの部分をアドバイスしたことは一回もありません。それはどの選手に対しても。僕自身、バレーボールを始めてから今まで、自分がバレー選手としてスキルが高いと感じたことは一回もないんです。技術的な部分はずっと、コンプレックスとして持ち続けていた部分でした。

 それでも僕が戦ってこられた要因の一つとして、マインドの部分があったのかなと感じています。下手くそだからこそ、じゃあ何をしないといけないのか。できないからおしまいじゃなくて、何ができるか。一点一点に対するアクションの起こし方や、マインドの切り替え方、持っていき方というのを一番工夫してやってきたので、アドバイスするとしたらそういう部分でしたね。

 西田は5月にケガをして、焦りは相当あったと思う。でも最終的にアスリートが結果を残すためには、どれだけ自分をコントロールできるかが大事なポイント。スキルだけでは勝てないし、セルフマネジメントできている選手というのが、トップの選手なので。僕自身も、自分のマインドをコントロールするためにどうすればいいのかというところは、一番試行錯誤してきた部分。そこは経験を積めば積むほど見えてくる世界があって、伝えることができる。マインドとかムードというものは、一日ないしは一時間、一分でも切り替えることができます。だからそういうアドバイスは比較的やっていましたね。技術的なことを聞かれてもわからないんで、僕には(笑)。

 僕はありがたいことに“ジャンプ力”という武器が一つだけあったので、その武器をどう見せていくかだけを考えて若い頃はやっていました。スキル面に関しては、引退する最後の最後まで、本当に考えて考えてやっていくしかなくて、試行錯誤を繰り返してきた現役生活でした。だからプレースタイルに対するこだわりもなかったし、自分が生き残っていくために必要なことをアップデートし続けていくことでしか前に進めなかった。そういう自分と比較すると、今は技術を持っている選手が目に見えて増えている。今回五輪メンバーに入った髙橋藍や大塚達宣もそうです。

「今は日本バレーにとっていいサイクル。東京五輪はチャンス」

――引退会見でも、髙橋選手、大塚選手は完成度がすごく高いと話されていました。

福澤:彼らの技術の高さというのは年齢以上のものだと思いますし、本当に純粋に、すごいなと思います。あとはやっぱり、石川(祐希)が、きちんと背中で、プロフェッショナルとしての道を彼らに見せていることが、すごく大きい。目指すべきものがあると、人って自然とそこに引っ張られるんですよね。石川があそこまでできてるなら、じゃあ自分も、もっと上に行けるかもしれない、って。

 それはたぶんどのスポーツでも同じだと思う。例えばバドミントンを例に挙げると、初めて五輪でメダルを取ったのはロンドンだったと思うんですけど、もう今では世界ランク上位の多くを日本人選手が占めている。10年ほどで劇的に変わっているんです。トップを走る選手が、世界に勝てるんだよというその背中を見せているからだと思うんですよね。目に見えてわかりやすいのは、陸上の100mだと思う。1人が10秒の壁を超えて9秒台を出した途端に、あんなにいろんな選手が超えられるようになった。

 やっぱり目標にリアリティを感じることは、何かを目指していく上ですごく大事なことだと思うんです。人はみんな大きな夢を持つし、その夢に向かって頑張りますって言うけど、でもその夢が、つかめるものなのかどうかわからないままやみくもに走るのと、そこにリアリティを感じながら走るのとでは、大きな違いがある。こうやったらできるんじゃないか、あいつが行けてるんだから俺も行けるんじゃないかって、そこにリアリティを持てるのは、成長の過程ですごく大事なことです。

 今、日本のスポーツ界全体にそういう流れができていると思います。各競技で、世界に引けを取らない選手がたくさん出てきている。もしかしたら近年のYouTubeやSNSで、世界トップのプレーや技術を見られる時代になったからというのもあるかもしれません。日本は島国で、海外に出ていくハードルもこれまでは高かったと思いますが、そういう垣根なく、中学生高校生も世界のトッププレーヤーを常に見られるというのは、大きいんじゃないかなと。僕らの時にはなかったものですね。

 今のサイクルは、日本バレーにとってもすごくいいサイクルで、このタイミングで東京五輪があることも大きなチャンスだと思います。石川であったり、西田であったり、中堅から若手まで頼もしいですし、若い大学生の2人(髙橋、大塚)にもすでに自分のビジョンというものが少なからずあって、そこに向かって努力をできる。楽しみでしかないですね、見守っていく側としては。大塚は(福澤と同じ)洛南高校出身の子で、髙橋(藍)も京都出身の子。そういう2人がそろって代表デビューして、これからの日本を背負っていく存在になるんですから。どんどんバレー界が盛り上がっていってほしいなと思います。

――東京五輪は見ますか?

福澤:見る、と思いますね。清水を(笑)。

――最後に、福澤選手にとって五輪とは、どういうものでしたか?

福澤:そうですね、なんか、バレーボールというものに対して、真剣に向き合わせてくれた一番大きなポイントというか。あの時(大学4年で)北京五輪に出ていなければ、ここまで一つ一つのことにこだわってバレーをすることはなかったかもしれない。ありがたいことに、オリンピックサイクルで自分のバレー人生はあの時から進んできた。五輪に出るために、自分はどうすればいいのか。やっぱりそのリアリティというものを、僕と清水は若い時に見せてもらったからこそ、そこに向けてできた努力というのはたくさんあるし、思い入れは強かった。そこをベースにして、いろいろな挑戦をさせてもらったので、そういう意味では、自分の競技生活にとっては間違いなく、切っても切れない核でしたし、それがあったからこそ歩んでこられた道だったかなと思います。

<了>







PROFILE
福澤達哉(ふくざわ・たつや)
1986年7月1日生まれ、京都府出身。中央大学1年時に日本代表に選出され、2008年に北京五輪に出場。同年パナソニックパンサーズに内定し、2008-09シーズンV.プレミアリーグ新人賞を獲得。以降、天皇杯、Vリーグ、黒鷲旗の3冠達成を実現させるなど数々のタイトル獲得に貢献。2015年にブラジルのマリンガへ1年間移籍。2019-20シーズンからの2年はフランスのパリ・バレーでプレーした。2021年7月、現役引退を発表。今後はパナソニックの社業で、スポーツや海外での経験を生かして活躍していく。

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