新谷仁美は重圧に押しつぶされそうになっていた。6月27日に行われた日本陸上競技選手権大会・女子5000m決勝。結果は2位、2種目の日本代表内定を勝ち取りながら、「今日のレースは、簡単に言いますと、ゼロ点」と言い放ち、涙を見せた。レース前には真剣に棄権も考え、レース中も一度は勝負を諦めかけた。その重圧や葛藤から彼女を救ったものとは?
(文=守本和宏、写真=Getty Images)
オンライン取材の場で、新谷仁美は泣いていた6月末。日本選手権5000mを2位で走り切った新谷仁美は、笑顔で履いていた白いシューズを脱いだ。ひもで縛り、スタンドに投げ入れる。いつもより少し派手なファンサービスに、少しだけ、彼女の心境の変化も感じた。
それからしばらく後。オンライン取材の場で、新谷仁美は泣いていた。
「私は常々100かゼロしか考えていない人間なので、今日のレースは、簡単に言いますと、ゼロ点」
10000mに続き、2種目の日本代表内定。加えていえば、1度目の現役引退から4年のブランクを挟み現役復帰。それからわずか3年だ。年齢は33歳。普通なら、喜んでいい結果である。
しかし、その涙は止まらなかった。
「故障もないのに本当に棄権しようと思うくらい、今回は怖かった」
その表情に、ここまでの葛藤。そして、つかんだばかりのわずかな光が見て取れた。「こんな思いをするなら、傲慢(ごうまん)なアスリートのままのほうがよかった」。彼女がそう語るほど追い詰められた理由とは何だったのか。そして、彼女を救ったものは何だったのか。
少し時間をさかのぼってみよう。
圧倒的な強さを見せたことで生まれた焦り昨年12月。日本選手権10000m、異次元の走りを披露した新谷仁美がそこにはいた。
2020年、陸上界の顔となった新谷仁美。ハーフマラソン日本記録更新から始まり、5000mは“15分の壁”を破る14分55秒83(日本女子歴代2位)をマーク。クイーンズ駅伝でもエース区間3区の記録を1分10秒上回る怪走。締めくくりは、圧巻の日本選手権10000mだ。3位以下を周回遅れにする異次元の走りで、日本記録を18年ぶり、28秒45も更新。30分20秒44で優勝し、無類の強さを見せた。
「新谷仁美は、もう二度と負けないんじゃないか。ひょっとすると、オリンピック含めて」。そんな圧倒的な強ささえ、感じる活躍だった。
しかし、当然、そんなことはない。
レース後に足の故障が発覚。もともとケガをしていた足に、強い痛みが引かない状態になった。それ自体、実際に長引き、満足な練習のできない状況が続く。ただ、問題はそこだけではなかった。新谷自身が焦りを抱えてしまったことだ。
「走るのは嫌いだけど、お金のために職業として走っている」「ブランドのバッグが欲しくて現役復帰した」。その奔放なキャラクターが支持され、メディア露出も増えた。応援者は目に見えて増えていく。そんな思いの中で、去年ほど良いコンディションに持っていけない。走らなければ不安になる。その重圧は、日に日に増していった。
救われた言葉「新谷仁美という一人の人間を守りたい」そして、久しぶりのレースとなった、今年5月の東京五輪テスト大会「READY STEADY TOKYO」。試合前日の会見で、ワクチン接種に関して聞かれた新谷は、こう答えている。
「アスリートだけが特別と聞こえるのは非常に残念」「オリンピック選手だけが(優遇される)というのは、おかしな話」。そのコメントは国民から大きな支持を得た。
期待に応えたいという自身の気持ち。コロナ禍で揺れるオリンピック開催。日本選手権後に抱えた足の痛み。称賛が圧倒的に多いものの、少なくはないネットの批判の声。その全てが少しずつの足かせになり、調子は狂っていった。
「READY STEADY TOKYO」5000mは15分18秒21で5位。ベストより20秒以上遅い。結果がついてこないことで、焦りは増幅されていった。
その状況に光がさしたのは、6月初旬のことだ。スイッチが入りきらないまま、ここまで来た中、所属する積水化学の部長や、彼女を二人三脚で支えてきた横田真人コーチを含めた数人で、今の思いを話し合った。
その時かけられた言葉が、新谷の気持ちを軽くする。
「別にオリンピックが全てじゃないから」
「新谷仁美という一人の人間を守りたい」
その言葉により、本人も吹っ切れた。「それが皮切りになった」と、横田コーチも語っている。
葛藤を抱えたままのレース「途中で諦めようと思った」そして迎えた、6月の日本選手権5000m。レース前、棄権したいという新谷に対し、横田コーチは変わらず「棄権していいよ」と告げる。ただ、いつもより深刻な気持ちだったと新谷自身は明かしている。
「スタート寸前まで棄権しようと、横田コーチに逃げ腰で言って、本当に棄権しようか迷ったぐらい今回は追い込まれていました。今年に入って、私が全く結果を出していない。結果を出さなければならないアスリートとして、今の状態は、オリンピックに関係なく焦りがある。故障もなければ、どこか痛いわけでもなく、調子も別に悪くないので、棄権する理由は全くないですが、棄権しようという気持ちになったぐらい、今回は怖かったんです」
「練習を積んでも、それが身になっていないのが原因。日ごろ自分が気持ちのコントロールをうまくできていないのが、今年に入って影響しているのかなと思う。そこをうまくコントロールして、結果につなげるのが私の役目なので、逃げてはいけないと思いました」
葛藤の中でなんとかスタートを切ったレース。しかし、中盤3000mを過ぎると廣中璃梨佳に引き離される。さらに3600m付近。後ろから来た田中希実にも抜かれて、一時4位まで順位は落ちた。
この時、新谷は思った。
「途中離されて正直諦めようかなって。本当に、ファンや応援してくださる皆さんに申し訳ないんですけど、諦めようかなと思いました」
それでも走るのをやめなかった理由しかし、走るのをやめなかった理由を、新谷はこう話す。
「でも、(田中)希実ちゃんが前に来た時、この子は1500mと800mを踏んで(走って)、寸前まで800mに出ていたのに、逆にこの子にも失礼なんじゃないかと思って。私は5000m、一本だぞって。それも大きかったし、廣中さんも含めて標準記録を切ろうとしている萩谷(楓)さんだったり同じチームの(佐藤)早也伽ちゃんだったり、みんなが記録を狙ってきているこの大会で諦めるのが、どれだけ失礼かというのを正された気がしたので、もう一回、挽回しました」
田中希実は、この日本選手権で2日前に1500mに出場して優勝、前日に予選、当日決勝に出場した800mでも3位に入ったレース後、たった30分後に5000mに出場している。それで負けるわけにはいかないというプライドが、新谷の力となったのだ。
そして、この時、もう一つ新谷の原動力となったものがある。ファンの存在だ。
「やはり今、アスリートやスポーツのあり方が大きく問われている中で、この4日間多くのファンがこの会場に見に来てくださっている、もちろん反対意見があるのも理解してます。でも応援してくださる人がいるのが、私が復帰した時に一番感じた部分でもあったので、途切れることなく今日まで応援してくれた人たちがいたから、今、走れるのだと思います」
さらに、自分を一人の人間として見てくれた所属先・スポンサーへの思いも巡る。
「スタート前に棄権しようと思った時、横田コーチはすかさず『棄権していいよ』と言ってくれたのですが、そこで逃げたら私に懸けてくださっている積水化学だったり、アース製薬の信頼を失ってしまうのもあったし、何度も『戦わなきゃ』って。ここで逃げたら本番なんてもっと怖いだろうし、ここで我慢するんだって」
棄権しよう、逃げようとした時、彼女をフィールドに引き留めたもの。それは、強力なライバルであり、途切れることなく応援してくれたファンであり、支えてくれたスポンサーやコーチたちの存在だった。
『傲慢なアスリート』の向こう側にあるもの積水化学の野口英盛監督は話す。「彼女の中で、全然パフォーマンスとして良くなかったとは思うけど、ああいうふうに抜かれて、後半巻き返せたのは、“自分が一本だから”と奮い立たせることができた結果だと思う。そして、そこまで考えられるようになったのが、良くなったところだと思う」
新谷は話している。「こんな思いをするなら、傲慢なアスリートのままのほうがよかったんじゃないか。そう思う時がある」と。
以前までの新谷、自身が話すように“傲慢なアスリート”のままであったなら、周囲を気にせず、『自分は結果を出すために生きています』と言っていたであろう。しかし、今の新谷は、コロナ禍で開催の是非が問われるこの東京五輪で、自分が何を与えられるのか、結果が出なかったらどうなるのか、それらを正面から受け止めて考えた。だからこそ、葛藤の中で強くなれた。それは、成長の証しである。
横田コーチは、その力をさらに新たな原動力にしてほしいと願っている。
「新谷は、代表が決まってから時間があったことで、いろいろ考えたり、発言を求められてきた。そういった中で、すごく苦しい状況に立たされていると思う。僕も地元でやるオリンピック、コロナ過・パンデミックの特別な状況下で行われるオリンピックは、もちろん経験したことがない。その中でメダルを期待されてスタートラインに立つのがどれほど苦しいことか、どれくらいプレッシャーのかかることか。僕が想像しても、そのはるか上の苦しさを抱えながら日々トレーニングしているんだろうなと、近くで見ていてすごく思う」
「シンプルにオリンピックのスタートラインに立ったら、いろいろな声が聞こえると思うんですよ。批判する声も、応援してくれる声もそう。そういった中で、あの人は良くも悪くも感情を上手に使う人なので、今回はいい機会だから、新しくプラスのほうに使ってくれたら。僕はすごくうれしいです」
そう、一番近くで見ていても計り知れないプレッシャーの重さを気遣い、そして彼女の成長を願った。
日本選手権から、少し時間がたった。オリンピックにまつわるさまざまなニュース、無観客の決定。それらを見て、新谷仁美はさらに苦しんでいるかもしれない。
ただ、僕たちが好きになった新谷仁美は、過去を含めて走る、今の新谷仁美だ。「私は自己チューだから」と言いながら発する優しさにあふれた言葉、無月経のリスク・食事の大切さを促す女性アスリートとしての価値。その葛藤と成長。その全てに、たくさんの知恵と勇気をもらった人々がいる。
そんな人々はきっと、どんな結果になろうが声をそろえて言うだろう。
「オリンピックだけが全てじゃない」と。
<了>