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なぜ日本人選手は「負けたら謝る」のか? 誹謗中傷が“選手の本音”を奪う憂慮

REAL SPORTS 2021年8月4日 11時44分

連日のメダルラッシュに列島が沸いている。現時点で日本勢はすでに19個の金メダルを獲得しており、1964年東京大会、2004年アテネ大会を上回り、史上最多となっている。だがその陰で、期待通りの結果を残せなかった選手がいるのもまた確かだ。そうした時、これまでにもしばしば日本人選手が“謝る”姿を目にしてきた。今大会もここまでに、体操の内村航平選手、テニスの大坂なおみ選手が思わぬ早期敗退を喫した。レスリングの文田健一郎選手にいたっては銀メダルを獲得したにもかかわらず泣きながら謝罪の言葉を発した。なぜ日本人選手は負けたら謝るのか――、考察してみたい。

(文=谷口輝世子)

日中韓豪の選手の言葉を分析。その共通点・相違点から見えてくるものは?

オリンピックで負けたとき、日本の選手は他の国の代表選手に比べて、謝る言葉をよく使っているのではないかと感じるようになった。そんな疑問への答えを探そうと手に入れたのが『オリンピックの言語学―メディアの談話分析』(神田靖子・山根智恵・高木佐知子 編著/大学教育出版)という本である。

この第4章で、2008年北京五輪でのオーストラリア、中国、韓国、日本、それぞれの国で国技とみなされる種目の選手の談話を分析した記述がある。分析対象種目となったのは、オーストラリアが水泳、中国は卓球、韓国はテコンドー、そして日本は柔道である。分析から共通点と相違点が挙げられている。

まず、共通点を見てみよう。「選手はもちろん監督・コーチ・強化委員長であっても、考えられないほどのプレッシャーを感じており、それがどの国の選手・関係者の談話にも表出している」と書かれている。4カ国の選手とも、自国民による金メダル獲得の期待から大きな重圧を背負っている。

違いもあった。オーストラリアの特徴は「興奮」「すごい」「やった」などの喜びを表す言葉、中国では「訓練」「犠牲」「重圧」などの言葉で苦しみの果ての勝利を示し、韓国の場合は「膝が割れても」「負けないという自信」などの必死さとそれを乗り越えた自信の言葉があった。日本では「金メダル以外は(負けと)同じ」などのように自分に厳しい言葉のほか、「一本」という言葉が多く使われており、金メダルを勝ち取るだけでなく、柔道における「一本の美学」が受け継がれていることが示唆されたという。

この研究では主に勝ったときの談話が分析されている。負けたときの談話にも共通点や相違点はあるのだろうか。

4カ国の選手談話を分析した大学教授の見解

今大会でも日本代表では、体操の内村航平選手が予選で敗退したことを受け、代表枠を争った選手に「土下座して謝りたい」と心境を語り、テニスの大坂なおみ選手は3回戦で敗退した夜にマネジメントを通じて日本向けにコメントを発表し、「皆さまの期待に応えることができずにごめんなさい」という表現を使っている。他の国の選手でも、金メダル候補が期待に応えられないと謝ることはあるのだろうか。

前述した4カ国の談話分析をした山陽学園大学の山根智恵教授にメールとズームを使って「日本の選手は他国の選手に比べて謝る言葉を使う傾向があるか」と質問させてもらった。

山根教授の答えはこうであった。
「答えはイエスでもあり、ノーでもあります」

イエスの理由はこのようなものだ。

「一般的には日本ではわびることが必要です。自分が悪くない場合でも、日本社会ではわびた方が、円滑な人間関係が築ける場合が多々あるからです。また、わびても、わびた方が金銭的な負担を負うような問題が生じないからです。ですから、一般的には謝る可能性は欧米と比較したら高いと思います」

ノーでもあるというのは次のような理由からだ。

「(日本以外でも)期待されていた種目やお家芸の種目の場合は、負けたときに謝ることが、そうでない種目よりも多いかと思います」

山根教授の4カ国分析やその後の調査でも、日本以外の選手で金メダルを期待されていた人の談話に謝るような言葉があったそうだ。その国の最も得意とする競技・種目で金メダルの使命を負った選手が期待に応えられなかったときには、どの国の代表かにかかわらず、思わず謝罪の言葉が口をついて出ることがあるのだろう。

海外選手に見られた、今大会の2つの対照的な事例

山根教授のイエスとノーの分析通りの事例が今大会ここまでに2つあった。

日本人選手以外にも、国威を懸けた金メダル獲得の使命を果たせずに謝った選手がいた。卓球混合ダブルスの水谷隼・伊藤美誠ペアに負けた中国の劉詩雯選手だ。7月27日付の朝日新聞には、中国のSNSである微博(ウェイボー)の中国中央テレビのアカウントが、劉が試合後に「皆さん、ごめんなさい」との言葉と涙を浮かべる写真を掲載したという。

もう一方の事例は、米国のスーパースター、体操女子のシモーネ・バイルズ選手である。27日の団体決勝で1種目目での跳馬が失敗に終わると、残りの種目は演技しなかった。メンタルヘルスの問題があったと明かした。7月28日付の朝日新聞の記事では悲壮感はなかったことに加え、「誰かに『申し訳ない』と謝るようなこともなかった」とあえて伝えている。この記事の行間から、日本代表なら似たような決断は難しかっただろうし、残りの種目を棄権した場合は謝っていたのではないか、というメッセージも浮かんできた。

どちらが良いか、悪いかではない。

国の威信を懸けた種目で負けて、謝った劉選手の無念さ、申し訳ない気持ち。バイルズ選手からは、自ら下した決断の責任を引き受ける一方で、チームと自分のために決めたことであり、悪いことをしたのではないという思いを感じることができた。それぞれの談話からその国の背景やスポーツ、オリンピックの価値を垣間見たといえるのではないか。

「国家のために母校や郷土の名誉のために勝たなければならない」1964年の論考

少し話は変わるが、金メダルを勝ち取る重圧を思うとき、私は1964年に書かれた作田啓一の論考『高校野球と精神主義』の一文を思い出す。

「大はオリンピックから小は高校野球にいたるまで、人は国家のために母校や郷土の名誉のために、どうしても勝たなければならない。私たちはいつも家族や職場や組合の代表者としての責任を重く背負ってよろめいている」

金メダルへの重圧はいつの時代もとてつもなく大きいし、日本以外の選手もそれは痛いほど感じていることは山根教授への取材から分かった。競技レベルの高まりに伴い、選手に求められるトレーニング内容や自己管理も増える。しかし、「お国のために、郷土のために勝たなければ」という悲壮感は、どこの国でもこれまでの時代よりも薄れているのではと私は思っていた。だから、だんだん謝ることも減っていくのではないかな、と感じていた。

今大会で社会問題となっているSNSでの中傷が、選手の“言葉”を奪う

しかし、ここ数日、インターネット記事のコメント欄を見て少し考えが変わった。競泳の400m個人メドレー予選で敗退した瀬戸大也選手と、前述した体操の内村選手を比較して、「内村は謙虚だったが、瀬戸はそうでない」という主旨の投稿がいくつかあった。瀬戸選手は敗退時の話の中で、謝る言葉を使っていない。もちろん、大会までに不倫による謹慎期間があったことも大きく影響していると思うが、先ほどのような投稿をした人は個人枠を争った選手に謝った内村選手に謙虚さを感じ、良い印象を持ったということだろう。

こういったインターネット上の投稿やSNSの書き込みを選手が意識して、また無意識であっても、負けたときに謝罪の言葉が出てくることと関係しているのだろうか。これも山根教授に聞いた。

「中傷ややゆする人がいるので、謝るという可能性はあると思います。うまく回避するために柔らかい表現をするというのはあり得るでしょう。将来的にはSNSへの対応なども選手の研修プログラムに組み込まれることになるのではないでしょうか。日本の場合は、最初にも話した通り、謝ってもそのことでお金を払ったりしなくてよいし、変なことにはならないから、うまく柔らかく言った方がいい、ということになるのではないかと、個人的には思っています」

各国の代表選手はインターネット、SNSを通じて、ファンから称賛、祝福、ねぎらい、慰めの言葉などを受け取って双方向の交流をしている。その中には、的確な批評もあれば、度を越したひどい中傷も交じっているだろう。

前述した『オリンピックの言語学』には、選手の発する言葉はそれぞれの国のスポーツ環境や価値観と無関係ではないことが示されている。ある面においては、同じ国に住む私たちの価値観を反映したものであるともいえる。であるとすれば、これからの選手の言葉もまた、SNSやネットの言論を反映していく可能性があるともいえるだろう。そして、選手の心からの言葉が、ネットの魔物に奪われてしまわないように、と思ったりする。

<了>






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