9月14日、フットサル・FリーグのY.S.C.C.横浜が、サッカー・元ミャンマー代表ピエリアン・アウンの加入会見を開いた。5月にFIFAワールドカップ・アジア予選のために来日。母国の軍事クーデターに対する抗議の意思を示したことで、命の危険があるとして帰国を拒否。8月に難民認定されていた。
この間、練習生として参加していたクラブには、誹謗(ひぼう)中傷の言葉が届いた。「町の治安が悪くなる」「国へ帰せ」――。それでもなぜ練習参加を受け入れ、フットサルチームでプロ契約を結んだのか? ピエリアン本人、クラブ関係者の言葉をひも解きながら、その意味を明かしていきたい。
(インタビュー・構成=藤江直人、写真提供=Y.S.C.C.横浜)
難民選手の横浜での一日は、まだ暗がりの早朝に始まる真夏から秋へと移り変わった季節を物語るように、ピエリアン・アウンが目覚めて最初に窓越しに見る港町・横浜の空は、まだ暗闇に支配されるようになった。
通訳を含めて日常生活をサポートしてくれる、同郷のウインチョー・タンさんと暮らす横浜市内の2DKのアパートで、毎朝4時に起床する生活を8月からスタートさせた。
「朝が早いので、夜も早く寝ないといけない。ゴミ出しのルールなどがミャンマーと大きく違うのでいろいろと気を付けていますけど、日本での生活には満足しています」
苦笑いしながらこう語ってくれたピエリアンは慌ただしく身支度を整えると、気持ちを高めながら、ウインチョーさんと共に横浜市内のフットサル場へ向かう。
7月にサッカーのJ3リーグを戦って8シーズン目になるY.S.C.C.横浜の練習生となっていたが、元日本代表MF松井大輔と共にプロ契約選手として加入したフットサル・Fリーグ ディビジョン1に所属するY.S.C.C.横浜フットサル(以下、YS横浜)の練習に参加するためだ。
異例の早さで認められた難民申請。W杯予選で来日してからの苦悩の日々YS横浜の練習は原則として午前6時から2時間行われる。松井とピエリアン以外はアマチュア契約選手で、それぞれが練習後に仕事をして生計を立てているからだ。
午前8時以降から就寝までに生まれる時間を、松井は「例えば指導者の勉強にも充てられる」と笑顔で歓迎している。同じ図式がピエリアンにも当てはまる。
「練習が終わってから自分も仕事に行けると思うし、日本語を覚えるための時間にも充てられる。今はやっとあいさつを覚えました。おはようございます、こんにちは、と」
笑顔でこう語ってくれたのは、日本政府から難民申請が認定された直後の8月下旬。それから約2週間後の9月14日。YS横浜への加入会見の第一声は日本語での自己紹介だった。
「皆さん、こんにちは。初めまして。私の名前はピエリアン・アウンです。ミャンマーから来ました。どうぞよろしくお願いします」
なぜ日本戦で抗議の意思を示したのか? サッカーを愛するからこそ…FIFAワールドカップ・アジア2次予選に参加したミャンマー代表のセカンドキーパーとして、5月28日にフクダ電子アリーナで行われた日本代表戦へ臨むために来日した。
この時すでに、26歳のピエリアンは不退転の決意を胸中に秘めていた。日本戦のキックオフ直前、国歌斉唱で自分が映し出される際に「3本指」を掲げる、と。
スタジアム内のトイレで右手の薬指の内側に『WE』を、中指に『NEED』を、人さし指には『JUSTICE』を黒字で書き込んだ。2月に断行されたクーデターによって政権を奪取し、国民への無慈悲な弾圧を続けてきた国軍への抗議の意思表明だった。
テレビで生中継され、多くのメディアも注目する日本戦ならば、世間の耳目を集められる。同時に多大なるリスクを生じさせる行為でもあると覚悟していた。
公の場で抗議の意を示した国民を、軍事政権は絶対に許さない。2次予選を終えて帰国すれば見せしめの意味で逮捕され、拷問を受け、最悪の場合は殺害されかねない。
それでも14歳で出会い、瞬く間に魅せられたサッカーを心の底から愛してやまないからこそ、絶対に譲れない一線があったとピエリアンは明かしている。
「政治とスポーツ、政治とサッカーは分け隔てられなければいけない」「私たちは日本に来る前から、ミャンマーサッカー連盟に対して『連盟は国軍の傘下にあるものではなく、完全に独立している法人だ』という旨の声明を出してほしいと求めていた。連盟も賛同してくれたが、実際に出された声明には何もうたわれていなかった。自分はそれが残念でならなかったので、日本戦前に3本指を掲げることを決めました」
代表チームを乗せたバスが、フクダ電子アリーナに入る直前に窓越しに見た光景が背中をさらに強く後押しした。無観客で行われる一戦ながら、スタジアム周辺に駆けつけた数十人の在日ミャンマー人が「あんな軍事政権のために戦うな」と声を張り上げていた。
「ミャンマー代表チームは、一部の在日ミャンマー人が思っているような国軍のチームではありません。自分たちは独立しているサッカー選手だと、日本の皆さんにも知ってほしかった。国際サッカー連盟(FIFA)も掲げているように、政治とスポーツ、政治とサッカーは完全に分け隔てられなければいけない。私自身もずっとそう思ってきたので」
リザーブの自分を注目してほしいと思ったピエリアンは、考え方に同調してくれた在日ミャンマー人を通じて、テレビを中心とした日本メディアへ事前に情報を提供した。
抗議の3本指を掲げるピエリアンの姿は映像や写真を介して、サッカーは軍事政権のプロパガンダにはなり得ない、と国内外へ発信するメッセージと化した。
「絶対に帰ってくるな。帰ってきたら殺されるぞ」。母国からの連絡一方で危惧した通りというべきか。母国から不穏な連絡が入った。首都ヤンゴンに次ぐ第二の都市、マンダレーにある実家が国軍によって割り出されたのだ。
「国軍がサッカー仲間に私の住所を聞き出した、と。今でこそ新型コロナウイルスでロックダウンされている関係で人数は減ったけど、多いときで国軍の兵士7、8人ぐらいが朝、晩と実家を監視していた。その後は私服姿の怪しい人たちも来るようになった」
実家には父と兄、弟の3人が暮らしている。SNSのチャットで家族の安全を確認していたピエリアン自身を取り巻く状況も、予選の会場を大阪へ移した中で変わってきた。
母国の友人からは「絶対に帰ってくるな。帰ってきたら殺されるぞ」と警告が届いた。在日ミャンマー人をはじめとする支援者たちからも、身を案じる連絡が入った。
ピエリアンが政治亡命する恐れがあると判断した代表チームは、宿泊していた大阪市内のホテルの警備を強化。脱出を試みるどころか、部屋内で軟禁下に置かれた。
「もう諦めていた」。ミャンマーへの帰国目前で一変した状況大阪でキルギス、タジキスタン両代表と戦ったミャンマーは2次予選の全日程を終え、6月16日深夜に関西国際空港を飛び立つ便で帰路に就く予定になっていた。
「もう諦めていました。ミャンマーへ帰るんだ、と空港までは思っていました」
空港へ移動するバスの車中で抱いた思いをこう振り返ったピエリアンは、支援者たちに「ごめんなさい」とメールした。直後に届いた返信が状況を一変させた。
画面には「出国審査で帰国を拒む。それが最後の手段だ」と記されていた。勇気を振り絞ってイミグレーションで亡命の意思を英語で告げると、別室へ連れていかれた。
程なくして、ロビーで待っていた支援者たちの元へ身元保証人の有無を問う連絡が入る。大阪市内でミャンマー料理店を営む、政治難民認定者がすぐに名乗りを上げた。
「日本に来る前はもちろん、代表メンバーの一員として日本に滞在している間も、そうしたことがあるのをまったく知らなかった。あのような形で日本に残れるようになって、大阪で支援してくれた方々に教えられて初めて知ったんです」
ピエリアンが「知らなかった」と苦笑したのは難民認定だ。大阪出入国在留管理局へ申請してから10日後の7月2日。帰国すれば迫害を受けるおそれがあるミャンマー人に対する暫定的緊急避難措置として、6カ月間の在留資格と就労許可が出た。
YS横浜に届いた誹謗中傷。それでも練習生として迎え入れた理由半年間ながら安全に暮らせる環境を手にしたピエリアンの元へ、思いもかけない声が届いた。YS横浜のサッカークラブから、練習参加の打診を受けた。
「私たちは町の課題解決をスポーツで、という精神の下で、ポジティブに生きられる社会づくりを大事にしてきた地域の町クラブです。スポーツ、特にフットボールが持つ力は無限大だと思っているし、練習生とはいえこのクラブに入ってきた以上はファミリー感覚を覚えてもらいながら、心の中に彼が平静を保てる日常を提供したかった」
7月7日からの3日間の練習参加を経て、ピエリアンを練習生として正式に迎え入れた理由を説明したYS横浜の吉野次郎理事長は、同時にこんな言葉も紡いでいる。
「賛否の声は当然ながら、何をやってもあると思っています」
練習参加や練習生としての受け入れが報じられた直後から、クラブの掲示板には「町の治安が悪くなる」、あるいは「国へ帰せ」と誹謗中傷に近い書き込みが相次いだ。
ネガティブな文言を「逆に血がたぎりました」と笑顔で歓迎した吉野氏は、ボールを追うピエリアンが何度も見せた、爽快感あふれる表情に思わず目を細めた。
「スポーツが持つ活力を生かして、人々の心に光をともす。私たちが目指してきたところから逆に考えたとき、彼の現状に関われて本当によかったと思っています」
世界最低水準の難民の受け入れ。難民に対する無理解と偏見の温床戦争や民族紛争、人種差別、宗教や政治的な迫害、経済的困窮、自然災害や伝染病など、さまざまな理由で自国を離れた、あるいは強制的に追われた人々が難民と定義される。
その数は2020年末時点で約8240万人とされ、世界の人口約78億人の1%に当たる。しかし、日本は難民の受け入れに対して非常に厳しい国として認知されている。
2019年のデータを振り返ってみれば、約1万人を数えた難民認定申請者に対して、日本政府から認定されたのは44人、割合はわずか0.4%にとどまっている。
先進国と比べればアメリカの29.6%(4万4614人)、ドイツの25.9%(5万3973人)、カナダの55.7%(2万7168人)などと、大きく乖離(かいり)している現状が分かる。
消極的な姿勢を取り続ける政府への是非とは別に、日常生活で一般市民が難民と接する機会が極端に少ない日本社会は、必然的に未成熟な一面を持ち合わせている。
YS横浜の掲示板だけでなく、例えばピエリアンを報じるネットニュースのコメント欄にも心ない書き込みがあふれる。難民問題を世界基準で知る機会を得られなかった歴史の積み重ねが無理解と偏見の温床と化し、差別や誹謗中傷を生み出す。
一連の状況を承知の上で、ピエリアンを受け入れたYS横浜には変化が生じている。それはサッカーではなく、フットサル選手として結んだプロ契約ともリンクしている。
難民を受け入れることは難民のためだけではない。YS横浜にとっての意義サッカーのYS横浜トップチームには4人のキーパーが所属。さらに6月中旬から満足に体を動かしていなかった日々で基礎体力も落ちていた事情もあって、ピエリアンは程なくしてフットサルチームの練習に参加するようになった。
今後を見据えたトライアルの意味合いも込められていた中で、ピエリアンを見守ってきたフットサル部門の渡邉瞬ゼネラルマネージャーはこんな言葉を残している。
「ウチの若い選手たちがトレーニング中に積極的にコミュニケーションを取っている光景や、彼の生活をいろいろとサポートしている様子を見たときに、総合的に見てクラブにとって、選手たちにとって非常にプラスになると判断してプロ契約を決めました」
ただ単に難民を受け入れるのではなく、地球上に生きる人間同士として理解し合い、必要なときには手を取り合いながら生きていく。そこには差別も偏見も何も存在しない。
「自分がサッカーやフットサルをしている時間は本当に楽しくて、不安や悩み、心配事などを全て忘れられる。ただ、ピッチやコートから外に出た瞬間にミャンマーのことをすぐに思い出してしまい、悲しくて胸が痛くなってくる」
「フットサルを通じて、ミャンマーという国を知ってもらいたい」5年間の居住と就労が可能となる在留資格を、8月20日の難民認定とともに取得。YS横浜とのプロ契約で生活ができる最低水準の報酬を得られ、さらに吉野氏の尽力で、支援企業で製造に関わる仕事にも就く予定の新たな生活にピエリアンは心から感謝する。
支援の輪はクラブの外にも広がっている。ミャンマー語が堪能な日本人有志による、日本語のレッスンが8月下旬からスタート。10月からは日本語学校にも通い始める予定だ。
「プロ契約できたことはすごくうれしかったし、家族のような存在であるこのチームのために、いろいろとできることをやっていきたい。自分がここでフットサルをしていくことで、いろいろな人にミャンマーという国を知ってもらいたい」
祖国と袂(たもと)を分かつ決断につながった日本戦で3本指を立てた行為を、ピエリアンは「今でも後悔していない」と胸を張る。その上で「ミャンマーという国を――」と紡いだ真意を、前出の渡邉ゼネラルマネージャーはこう補足する。
「ミャンマー出身のプロフットサル選手として、プレー面での活躍は当然期待します。その上でさらに、今現在のミャンマーで起きていることを実際に目で見て、感じたことを話せる、日本で暮らす唯一のミャンマー人でもあると思っている。ピッチ内外でお手本になれる態度や行動を示してほしいし、私たちはそれをサポートしてきたい」
「命さえあればこの先に何でもできる」。あらゆる違いを越えた共生社会へ国軍に拘束されている非暴力民主化運動の指導者、アウンサンスーチー氏の勢力が結成したNUG(国民統一政府)は今月7日、軍事政権との戦闘開始を宣言した。
先行きがさらに不透明になる中で、いつか平和が取り戻されたときには帰国し、再会する夢を描くピエリアンは「一番大事なのは命です」と祖国へ祈りをささげる。
「サッカーの試合をするために日本へ来て、一人で勝手に残ったことで家族や友人たちには迷惑を掛けた。申し訳ないと思っているが、命さえあればこの先に何でもできるので」
日本で生きる自分にできることとして、コロナ禍の状況さえ許せば、軍事政権への抗議活動やミャンマーへの支援を訴える集まりなどにも積極的に参加していく。
市民と難民とが共生していく上での、日本社会全体へのメッセージにもなり得る新たな人生を、国籍を越えたエールを受けながらピエリアンは全力で突っ走っていく。
<了>