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「世田谷で“人”に寄り添える存在に」SETAGAYA UNITEDが目指すサッカークラブの存在意義とは

REAL SPORTS 2022年1月16日 18時15分

2022年1月1日に今季から東京都4部リーグに参戦するサッカークラブ「SETAGAYA UNITED」が立ち上がった。代表を務めるのは、柏レイソルU-12、ジェフユナイテッド千葉U-15・U-18を経て、国内や東南アジアでプレーしてきた地頭薗雅弥(じとうぞの・まさや)さん。決して順風満帆ではないサッカー人生だったと語る彼はなぜサッカークラブをつくろうと思い立ったのか。その背景には生粋の“サッカー小僧”が語るサッカーへの真っすぐな愛、そして新たな生活様式の中でよりかけがえのないものとなった“人とのつながり”への思いがあった――。

(インタビュー・構成=阿保幸菜[REAL SPORTS編集部])

自ら切り開いていったサッカー選手への道のり

――今年1月1日にサッカークラブ「SETAGAYA UNITED」を設立しをスタートしましたが、地頭薗さんご自身はこれまでどういうサッカー人生を歩んできたのですか?

地頭薗:4歳からサッカーを始めて、東習志野FCというチームに入ったんですが、小学3年生の時に柏レイソルのU-12のセレクションを受けました。サッカー雑誌の募集要項を見て親に「受けたい」と頼んで、申込書を自分で書いて送りました。それで受かって4年生から6年生まではレイソルのU-12でやっていたんですけど、U-15には上がれませんでした。

 これからどうしようか、となった時にジェフ(ユナイテッド千葉/当時ジェフユナイテッド市原)が声をかけてくれて。その時、レイソルでU-15に上がれなかった選手が10人ぐらいいてみんなジェフのセレクションも受けたんですけど、受かったのは僕だけだったんです。合格が出た後に当時の監督から「なんでゾノ(※地頭薗さんの愛称)だけ受かったか分かる?」と言われて「分からないです」と答えたら、「ゾノだけレイソルの服を着てこなかったんだよね」って。僕は上がれなかった時点で(レイソルのユニフォームを)全部捨てたんです。もうレイソルでプレーすることはないから「一生着ない」と言って。

――すごい潔さですね(苦笑)。

地頭薗:でもそれ以外ユニフォームを持っていなかったので、親に頭下げて「僕は違うクラブでプロを目指すから!」と言って、ナイキの一番かっこいいウェアを買ってもらってセレクションに行ったんです(笑)。U-15、U-18までジェフに所属していたんですけど、結局トップチームには上がれませんでした。

 次のチャンスとして大卒でプロを目指そうと思い、青山学院大学のサッカー部でプレーしました。1、2年生の時は試合に出て頑張っていたんですが、3年生の時に前十字靭帯を切ってしまって。4年生で復帰して、ケガ前には試合にも出ていたのでいろいろなJクラブの練習に参加させてもらったんですけど、全然加入先は決まらず。

 チームが決まらなかった時、「タイで紹介できるチームがある」と言われて行ったら結局練習すら参加できなくて、約2週間タイで放置されたこともあります(笑)。今となっては“あるある”で、僕にとっては笑い話です。当時はめちゃくちゃ怒りましたけど、今となってはそのおかげで免疫がついて、東南アジアでプレーしていた時にイレギュラーなことがあっても動じなくなったので。

――すごいポジティブですね……! その後はどうなったんですか?

地頭薗:今後どうしようかと考えていた時に、最後の最後で当時関東リーグ1部だった相模原SCが声をかけてくれました。

 相模原では3年間、アマチュア契約といって子どもにサッカーを教えながら選手をやっていたんですけど、関東1部、JFL、J3を経験して4年目のシーズンになる25歳の時「やっぱりプロになりたい」という気持ちが強くなって。でも、相模原で続けていてもその可能性は低いと思い、相模原をやめて海外へ行く前提で9カ月だけ神奈川県リーグのYOKOHAMA FIFTY CLUBというチームでプレーさせてもらってから、海外リーグのテストを受けに行くことにしました。

――何度も選ばれない人生を繰り返していくと「どうせ自分なんてうまくない」「プロになんかなれない」とか、その時点で諦めてしまう人が多いと思うんですけど、地頭薗さんの場合は小学生の時から常に自分で門をたたいて夢に向かっていっていて、すごい行動力とハングリー精神ですよね。

地頭薗:だいぶ変わっていますよね(笑)。

――海外ではどのあたりに行ったのですか?

地頭薗:タイや、ドイツの下部リーグとかのテストを受けに行きました。カバン一つで行って1泊500円ぐらいのホステルに泊まって、毎日いろいろなチームに自分で突撃して練習参加をお願いするということをやっていたんですけど、なかなか決まらなくて。8カ月くらい未所属で、もう引退しようかなと思っていた最後の最後に、2016年1月にギリギリのタイミングでアルビレックス新潟シンガポールの当時社長だった是永大輔さん(現チェアマン)がオファーを出してくれて、1年間プレーさせてもらいました。

 その年は運よくチーム史上初の全4タイトル取れて。その後はチーム側からオファーをもらう形でマレーシア、タイでプレーして、給料や条件もよくなって結構トントンといい感じにいったんですよね。

――これまでは自分で門をたたいていたのが、シンガポールでの実績を買われてチームの方から声をかけてもらえるようになったんですね。

地頭薗:そうです。ただ、タイの最初のチームが2年契約のオファーだったんですけど、あと1年残っていたタイミングの契約交渉でお給料のことでボスと揉めて切られてしまって……。もう移籍の期間も終わっていたので所属先がない状態になってしまいました。

 そのタイミングで初めてクラウドファンディングを立ち上げて、チームが決まるまで動くためのお金を支援していただきました。それでもなかなか決まらなくて、周りの人にも「もう引退する」と話していた日に、最後の最後でタイのチームからオファーが来て。「明日の飛行機で来て」と言われて、さらに2チームでプレーさせてもらいました。そして2020年のコロナ禍になる直前に、海外へ行く前にお世話になっていたFIFTY CLUBの社長からオファーをもらって帰国し1年プレーしました。

――いろいろな環境でサッカーをやってきた中で、東南アジアでの経験から学んだことや感じたことはありましたか?

地頭薗:東南アジアの人たちは日本の昭和時代みたいな感じで、人のつながりが強く、人間臭さが残っていて僕は好きだなと。サッカーの部分でいうと、“助っ人”外国人なので当たり前に結果を求められます。この試合に負けたら外国人選手のせい、みたいになるので、外国人選手に対する依存度が東南アジアはすごく高いですね。そういう意味ではめちゃくちゃ刺激はありました。




やめたいと思ったことは何度もある。それでも…サッカーへの真っすぐな思い

――会社員として働きながらサッカーをするようになったのはいつからですか?

地頭薗:32歳になる年だった昨年(2021年)、サッカー以外のこともやってみようかなと考えていたタイミングで、美容関連会社の営業職とSHIBUYA CITY FC(東京都リーグ1部)から声がかかり、会社員として働きながらサッカーをすることになりました。

――そのどちらもやめて、新たな道を歩むことを決めた理由は?

地頭薗:SHIBUYA CITYでの1年間を通してもちろん学べることもあったし、成長できた部分もあったんですけど、自分の中で「もっとサッカーに対して何かできることがあるんじゃないかな」というふうにすごく考えるようになって。サッカースクールの運営や指導者、代理人などいろいろな道を考えましたけど、自分でサッカークラブをつくった方が、自分のサッカー観を最も表現できる方法なんじゃないかと思い始めて。そういうことを周りの人たちに話していくうちに、「面白いじゃん、協力するよ」というふうに言ってくれる人が増えたので、「これはもうやるべきだ!」という感じでSETAGAYA UNITEDを立ち上げることにしました。

――デュアルキャリアでサッカーを続ける場合、どのような問題点があると思いますか?

地頭薗:サッカーをするために、サッカーだけでご飯が食べられないから仕事している、みたいにどうしてもなっちゃうんです。もちろんそうなんですけど、それって時間的にもったいないなと思っていて。だから仕事とサッカーがもう少し同じモチベーションでできるような環境があれば、サッカーをやめた後のキャリアにも生きると思うんです。

 例えば、大学を卒業して2年間働きながらサッカーをやって、24歳でプロサッカー選手になるとします。働いていた2年間でエンジニアリングやプログラミングとかを学んで、例えばフリーランスで月収50万円の仕事を受けられるような仕組みづくりができてからプロになれば、もしチームをクビになっても怖くなくなりますよね。収入の不安がないことはパフォーマンスにも影響が出るんじゃないかなと。

――なるほど。

地頭薗:自分も含めてですけど、サッカーをやるとどうしてもサッカーだけになっちゃうので。それぐらいの覚悟がなきゃプロにはなれないし、しょうがないんですけども。でもやっぱり、違う職種の人と出会ったり違う世界を知ることって、意外とサッカーにもいい影響があったりするので。そういう意味では、そういう選択肢があってもいいのかなというのは思います。

――仕事をしながらサッカーをしている選手たちは、どういう仕事を選ぶ人が多いんですか?

地頭薗:サッカースクールのコーチだったり、サッカー関連の仕事をしている人が基本的には多いと思います。自分が持っているスキルをそのまま生かせる分、他のことをするよりも正直ラクなので。でも、サッカー以外のことをやらなければならなくなった時に圧倒的に知識量が少ないのでキツイと思います。

――競技以外の仕事もするアスリートが最近増えましたけども、まだまだ「競技に集中していない」とその活動を疑問視する声もありますよね。

地頭薗:そうなんですよ。例えば会社員の人が仕事を変える時って「転職」っていわれるのに、僕らが仕事を変える時は「引退」っていわれるんですよ。アスリートがキャリアを変えることも「転職」なわけじゃないですか。社会人とアスリートのキャリアが分断されてしまっているというのはすごく感じます。僕はアスリートの“セカンドキャリア”という言葉自体がなくなるような状況をつくることができれば、もっといろいろなアスリートの問題を解決できると思っていて。

――これまでのサッカー人生の中で、サッカーから離れたいと思ったことはあるんですか?

地頭薗:めっちゃあります(苦笑)。やっぱり打ちひしがれることが多かったので。特に海外に行くまでは、同級生やユース時代の仲間がJリーグで活躍しているのを見て、すごく劣等感がありましたね。だからやっぱり最初は、Jリーグの試合を見られなかったです。自分の仲間が自分よりいい舞台で、ちゃんとしたお給料をもらってやっているのが悔しくて。でも、海外に行ってからはそういう比較から抜け出して、“自分は自分”で勝負できるようになりました。特にマレーシアやタイでチームの中で日本人1人でプレーするようになってからはだいぶ人と比較することがなくなりました。

――それでもサッカーを続けてきた理由は?

地頭薗:なんかすげえ……サッカー好きなんですよね。サッカーがすごく好きなんですよ。正直、それ以外ないんですけど(笑)。サッカーがあったからこそいろいろな人と出会えたり、いろいろな国に行けたり、サッカーをしてこなかったら得られない経験ばかりなので。

 30歳ぐらいになって周りの仲間たちも引退していく中で自分もいずれ終わりにしなければならないと思うようになった時に、でも「やっぱりサッカーが大好きだな」と、いろいろ模索しながらもサッカーから離れられない自分がいました。やっぱり自分の人生はサッカーと生きる人生なのかなと思い始めて、「サッカーに恩返していきたい」という思いが強くなっていったんです。


クラブの存在が人と人とがつながるきっかけになったら…

――そのような思いを持っていた中で、サッカークラブを自分でつくろうと思った理由は?

地頭薗:サッカーというスポーツを90分間どうやって戦うのかという、自分のサッカー観というのがすごく強くあって。ただスポーツとしての勝ち負けだけでなくて、歌手や画家の人たちと似たような感覚でサッカーって自己表現の場所だと思っているんです。例えば、ただ自分が描きたい絵を描いている人と、高く売りたいから描いている人は、絵に対する捉え方が違うじゃないですか。なかなかそういう感覚を理解し合える人って少ないので、ギャップを感じることもありました。サッカーは一人ではできないので。

 でも人生で一度ぐらい、自分の中のサッカー観を表現したいなとすごく思っていて、一番いい方法は何か考えていた中で「自分でサッカークラブをつくろう」とふと思ったんです。それでSETAGAYA UNITEDを立ち上げました。

――世田谷区を拠点に選んだのはなぜですか?

地頭薗:おばあちゃんの家が世田谷にあって、僕自身も18歳から世田谷に住んでいます。ほとんどの駅に昔からの商店街があったり、大きな公園もあって、昔から住んでいる人と勢いのある若い人たちがいい具合に共存していたりと、街の雰囲気がすごく好きで。都会でありながら人のつながりがある街だなと思っているので、この場所でサッカークラブがつくれたら面白いかなと思ったんです。

――クラブ名の「UNITED」はジェフから?

地頭薗:そうです。僕のサッカー選手としての基盤は間違いなくジェフアカデミーでの6年間でつくられましたし、自分の中ではジェフがやっぱり心のクラブだから、自分に黄色い血が流れている意思表示です。僕らジェフのアカデミー出身者はジェフがJ2にいようと、とにかくジェフの存在が好きですし、あの最高のサポーター、最高のスタジアムに憧れて育ちました。僕はそこでかなえたかったことをジェフではできなかったので、SETAGAYA UNITEDで表現したいという思いを込めました。

――SETAGAYA UNITEDを立ち上げるにあたって、こだわった点は?

地頭薗:中身も見た目も本当の意味でかっこいいサッカークラブって少ないなと思っていて。中身の部分では、自分たちがやりたいことをサッカーで表現して、サッカーを楽しみながら、その中で結果が付いてくるような価値観を持ったクラブにしていきたいです。

 見た目の部分では、ユニフォームやロゴ、HPのデザインなどにはこだわったデザイン経営に力を入れています。今、世田谷区や近隣地域の飲食店などでユニフォームを置くよと言ってくれているお店が増えてきたんですけど、お店にユニフォームがあるだけで「どこのクラブ?」とか「今日の試合どうだったかな」と会話のきっかけになって、僕らを通して人と人がつながっていけたらいいなと考えていて。コミュニティづくりの一つとなれたらいいなと思っています。

――サッカー観もデザインも全部含めて、一緒にやる仲間や選手たちとも価値観が共有できないとなかなか理想をかなえるのは難しいことだと思いますが、ビジネスメンバーはどういうふうに集まったのですか?

地頭薗:一人一人、僕が「こういうことやりたいんです」と話して共感してくれた人たちが集まってくれました。例えば、現在スペインに移住してうどん屋の経営やアパレル業など、実業家として活動されている元サッカー選手の石塚啓次さんがユニフォームのデザインをしてくれました。かっこいいユニフォームを作るためにデザイナーやメーカーを探していたタイミングで、マーケティングを手伝っていただく立木正之さんがたまたま山城高校時代の同級生だったので声をかけてくれて。

 ホームページなどのデザインはすべて青山学院大学サッカー部の先輩の峯くん(峯村昇吾)が、僕の思いをデザインとして落とし込んでくれています。彼は今、武蔵野美術大学の大学院でデザイン経営を学んでいるんですけど。ここまでデザインを経営に落とし込むサッカークラブってなかなかないと思うので、ゴリゴリこだわっています。サッカー界で美術系の大学院に通っている人って、ほぼいないんじゃないですかね。センスがあるのはもちろん、僕のことをよく分かってくれているので想像を超えるイメージをつくってくれて、本当にありがたいです。

人より大切なものはない。人に寄り添えるクラブに

――皆さんサッカーを通してつながった人たちでありながら、それぞれにサッカーだけじゃない特技を持っていて、すごく魅力的な人たちが集まっているなと感じました。

地頭薗:それぞれのメンバーがいろいろな業務をサポートしてくれているので、僕はとにかく企業、選手、メディアの方、行政とかいろいろな人に会ってクラブの魅力を伝えていくことに専念させてもらっています。クラウドファンディングも1月1日にスタートして6日間くらいで120万円ほど支援金が集まりました 。

――すごいですよね。

地頭薗:会える人には足を運んで直接話して、知り合い一人一人に連絡して、本当にウザイと思っている人もいると思うんですけどプライドを捨てて。最初の3日で1500人ぐらいに連絡したんじゃないですかね(笑)。

――プライドを捨てて人に頭を下げることって、実際になかなかできないことですよね。

地頭薗:これまでもうまくいかないことが多かったので。だけど、自分が好きで続けるために乗り越えるしかない時って、プライドって一個ずつ折っていかないといけないんで。プライドなんかあったらやっていけないですし。

 例えばクラウドファンディングでも、一人でも応援してもらう人を増やすためには自分からアプローチしていくしかないし、それができなければやる権利もない。思いを話して伝わる人もいれば伝わらない人ももちろんいると思うんですけど、集まってくれたメンバーや応援してくれる人たちを大切にしながら、自分なりの誠心誠意を見せて行動していきたいなと。

――持ち前の行動力も、人脈もすごいですね。

地頭薗:せっかくやるなら面白い方がいいじゃないですか。そういう意味で一人でも多くの人に応援してもらえたらいいなと思うし、周りの仲間がそれぞれの力を出し合って支えてくれているので。僕一人では何もできないので、自分が今やるべき仕事はSETAGAYA UNITEDのサッカーをよりよくするために、一人でも多くの人に「SETAGAYA UNITEDって面白いな、かっこいいな、いいクラブだな」と思ってもらえるように伝えていくことだと思っています。

――選手を集める上での基準はあるんですか?

地頭薗:サッカーがうまい選手よりも、本当にうまくなりたいと思っている選手。そして一番は人間性ですね。相手に対してリスペクトを持てる人。リスペクトをするように押し付けてくる人もいますけど、一方通行じゃ成り立たないと思うんです。だから僕自身も選手に対してリスペクトを示していきたいと思っています。

 加入してくれた選手たちは皆そういった人間性を持った誠実で謙虚さのある選手たちで、彼らもクラブや僕に対して期待してくれています。一番最初に加入を発表したシンガポール時代の仲間、福田健人とかも「ゾノくんとやりたいから」と言ってくれて。そういう選手たちに対して、僕自身も誠心誠意向き合いたいです。

――キャリア的にはどういう選手が多いですか?

地頭薗:プロでやっていた選手もいれば、大学までやっていたとか、社会人リーグでやっている選手もいます。今はみんなそれぞれに働きながらも、どうしてもまだまだサッカーがうまくなりたいという選手が集まってくれています。シンガポール時代の仲間とか、FIFTY CLUBの時の仲間、あとジェフのユースの後輩だったり、他にも推薦されて会った選手もいますが、基本的には全員僕とつながりのあるメンバーです。

――将来的に、SETAGAYA UNITEDをどんなクラブにしていきたいと考えていますか?

地頭薗: Jリーグも含めて全国にサッカークラブがあるし、東京にはFC東京や東京ヴェルディといったJクラブもあって、世田谷自体も人口約90万人いる街でブランド力もすでにある。そういう中で、正直(SETAGAYA UNITEDは)なくてもいいと思うんですよ。実際、「世田谷にサッカークラブって必要なの?」とか「サッカービジネスはお金にならない」とも言われました。

 でも、「あったらいいな」という存在になりたい。街の人たちのコミュニティづくりとして、生活の一部になじめるようなクラブになれたらいいなとすごく思いますね。なので僕らは、結果よりも自分たちのやりたいことを貫くことに意味があるんじゃないかなと。その先に、上のカテゴリーに上がっていけたらもちろんいいですけど。

 そして“人”を大切にできるクラブにしたい。応援してくれている人はもちろん、選手の家族やスタッフの家族にも。仕事をしながらそれ以外の時間をサッカーに費やしてもらうわけなので、家族の協力なしでは無理ですし。僕は人より大切なものってないと思っているので。世田谷の人はもちろんその近隣地域の人も、これから関わってくれる人も含めて、人に寄り添えるクラブでありたいです。



<了>






PROFILE
地頭薗雅弥(じとうぞの・まさや)
1989年生まれ、千葉県出身。4歳からサッカーを始め、柏レイソルU-12、ジェフユナイテッド千葉U-15、U-18を経て青山学院大学サッカー部へ入部後、SC相模原へ加入。アルビレックス新潟シンガポールではクラブ史上初の4タイトル獲得に貢献し、その後マレーシア、タイでプレー。帰国後は神奈川リーグのFIFTY CLUB、東京都リーグ1部のSHIBUYA CITY FCで1年ずつプレーした後、2022年1月1日に東京都世田谷区を拠点とするサッカークラブ「SETAGAYA UNITED」を立ち上げ、今春のリーグ参戦に向けて奮闘中。

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