ついに“ミラノの支配者”が帰ってくる。昨季終了後に行った膝の手術のリハビリから復帰間近といわれるズラタン・イブラヒモビッチ。彼の帰還は、イタリア・セリエA連覇を目指すACミランにとって大きな追い風となるはずだ。そこで本稿では、昨年刊行された書籍『アドレナリン ズラタン・イブラヒモビッチ自伝 40歳の俺が語る、もう一つの物語』の抜粋を通して“イブラ”の偉大さを改めて振り返る。今回は、ドリブルへの愛、そして天敵ペップ・グアルディオラについてイブラヒモビッチ本人が語り尽くす。
(文=ズラタン・イブラヒモビッチ、訳=沖山ナオミ、写真=Getty Images)
トゥン、トゥン……「おい、わかったか? 俺は止められないんだ!」子どものころから、ドリブルは敵をあざ笑うための必須テクニックだった。股抜きして一人かわして振り返って言う。「おい、わかったか? 俺は止められないんだ!」
アヤックス時代もドリブルばかりしていたが、とにかく俺は昔からフェイントが大好きだった。
ドリブルはブラジル人選手のロマーリオと怪物ロナウドから学んだ。彼らのボール扱いは他の選手たちとは別格だった。ボールを離すことなく、軽いタッチで運ぶ。トゥン、トゥン、内へ、外へと。瞬時に、トゥン、トゥン。まるでバンディの選手みたいなんだよ。バンディというのはスウェーデンで人気があるアイスホッケーのようなスポーツで、スティックの両面を使ってボールをジグザグに前に進めていく。スウェーデン人はスティックを使うが、ブラジル人は足を使うわけだな。
俺はエラシコにも夢中だった。昔から大好きなフェイントで、スネイクと呼んでいた。2回のタッチで蛇行して抜き去ってから、コブラのようにボールに噛みつくからだ。トゥン、トゥン……。
いつも最新テクニックを披露してくれるブラジル人のプレーを見て勉強した。何時間もの間、路上でエラシコの練習をした。エラシコを試合本番で見せつけてやったときは最高の気分だ。観客席から罵声を浴びても、エラシコで抜き去ると敵サポーターは黙るしかない。そしてやつらは、「すげぇよ。スペクタクルだ!」と感嘆の声を上げるのだ。
俺はシザースも好きだ。でも、ロナウドほどの爆裂したシザースはなかなかできなかったよ。怪物の出足は弾丸のようだ。1998年にパリで開催されたUEFAカップ決勝戦で、ラツィオ相手にインテルのロナウドが決めたゴールは誰もが忘れられないだろう。フェイントを1度、2度、3度! 右にうねり、左にうねり、飛び出したGKルカ・マルケジャーニをかわしてゴール。
俺にとって自由を享受するためにドリブルが必要だったユベントス時代、ファビオ・カペッロに問われた。「ドリブルするのはいいが、それは何のためだ? シュートするためか、組み立てるためか、あるいはクロスするためか? それはいい。だがおまえはドリブルのためにドリブルしてるのではないか? それはやめておけ」
今の俺にとって、ドリブルはコスパが悪い。高くつく。ドリブルしたあとはゴールするためのエネルギーを再チャージしなければならないからだ。マルコ・ファン・バステンは、「チームを助ける最高の方法はゴールすること」とアドバイスしてくれた。つまり現在の俺にとって、ドリブルは第一選択肢ではない。ゴールのためにエネルギーを温存しないといけないからな。シンプルにゴールしたいのだが、どうもそれが一番難しい。パスして、シュートする。それはサッカーの基本だ。
スポーツの基本的要素を、俺たちはどうもややこしくしてしまうんだよな。派手なゴールをして自慢気なやつがいたら、何と言われるだろう? 「シンプルにゴールしろ!」と批判されるだけだ。そこだ。本当の挑戦とは特別なドリブルを見せつけることではない。味方と協力し合ってシンプルに得点を決めることなのだ。ときには心のなかのエゴイズムが、「派手なプレーをやれよ!」とささやいたりするけどな。
ドリブルは子どものお遊びだ。カッコつけるためにバイクで前輪を浮かせて走るようなものだな。成長して大人になると、アスファルトを四輪でしっかりつかむ車へと嗜好が変わるのだ。
だがな、ドリブルは俺にとって自由を享受するために必要だったんだ。すべてから逃げ切るため、他を置き去りにして抜きんでるために。ただ一人、前方のスペースに位置するため、開かれた場所に吹き込む風を一人で感じるため、さらには俺の才能を見せつけるために。
イブラに何をすべきか指示するということは、それはつまり…俺が〝イブラ〞に成長してからは、監督たちにこう言ってやった。「戦術はわかりましたよ。しかし最後の局面で何をするかは俺に決めさせてください」
俺はチームのためにどう動くのがベストかを、察知する能力を身に付けていたからな。インテル時代にロベルト・マンチーニ監督は俺に自由を与えてくれた。だが、バルセロナ時代のペップ・グアルディオラは俺に自由を与えなかった。
バルセロナでは俺のいるべき場所がセンチメートル単位で限定され、動きは秒単位で決められた。どこにどうやって走るのかまで指示されたもんだから、俺は自分を見失ってしまった。取り押さえられて、牢獄に入れられたようなものだった。
イブラに何をすべきか指示するということは、それはつまり、イブラを必要としないということだ。監督たちは、イブラは変わらないってことを知っておかねばならない。
グアルディオラにも伝えていた。「俺のプレースタイルが気に入らないのなら、外してもいいですよ」と。それでも彼は、俺をゴール前に立たせ続けた。スペースに飛び込み、ニアをぶち抜くことを要求した。もちろん、それくらいのことはできるぞ。だがな、俺はそういうタイプの選手ではないんだ。
最初は適応しようと全力を尽くしたんだよ。何といっても、あのグアルディオラが俺の獲得を望んだわけだし、俺にとっても最高の挑戦だったからな。とはいえ、俺がバルサに到着する前から、「イブラはバルサが必要とするようなセンターフォワードではないだろう。タイプが違うんじゃないか? うまくいかないだろうな」という声は聞こえていたんだよ。だからこそそんな声を否定するために、俺だってバルサの一員として働けることを示すために努力したんだ。
だがな、俺はボールに接するたびに2度考えなくてはいけなかった。まずは本能が体を動かそうとした。次に彼らがお好みの方法を考えた。俺の行動、言動はすべてこんな感じでスムーズではなかった。ダブルで考えて、ダブルで生きた。もはや俺自身ではなかった。そんなことは人生で初めてだった。6カ月間は耐え忍んだが、その後はぶっ飛んじまったよ。
真実はこういうことだろう。グアルディオラは俺とリオネル・メッシ、それぞれの特徴をベースに共存させる方法を見つけるべきだった。そうやって手腕を発揮するべきだった。だが、うまくいかなかった。一方、ルイス・エンリケは、メッシ、ルイス・スアレス、ネイマールを同時に配列し、3人ともがスペースを得られる方法を見出した。
例えば、グアルディオラはメッシ、クリスティアーノ・ロナウド、ハリー・ケインを獲得してもいいんだ。しかし、彼が現在指揮するマンチェスター・シティはこの3人を取ろうとしない。3人とも超一流で個性が強過ぎるからだろう。哲学者グアルディオラは従順な選手を好む。
ユニフォームも不自由な牢獄になる可能性がある試合に戦術は必要だが、個人のファンタジーとクオリティーを投入することも大事なんじゃないか? 勝利に必要なのがシステムだけだったら、ファン・バステンではなく、別のセンターフォワードを置けばいい。違うか? ファン・バステンは数々の優勝カップを掲げた。稀有な才能を持って勝利をもたらしたチャンピオンだ。その才能を引き出すためには自由が必要なのだ。
ネイマールのドリブルが芸術的だからといって、やめろとは誰も言わないだろう? それは画家に向かって「絵を描くな」と言うようなものだ。スピードある選手に「もっとゆっくり進め!」とは指示しないだろう。むしろチームのために彼のスピードを生かそうとするんじゃないか? システムは集団をうまく機能させるための助けになる。だが、ゴール近くにいるアタッカーは本能に従うべきだ。
システムと同様に、ユニフォームも不自由な牢獄になる可能性がある。母親が作ったご飯を食べるために家にいるのは心地よい。だが俺は、炎のなかをさまよい歩くことが好きなんだ。俺はスウェーデンを離れて、オランダのアヤックスに所属した。大きな挑戦だった。それは自分の家の庭を出て、別の家の庭に行くようなもの。新たな庭でも同じことができるのか試さないといけない。うまくいけば、選手としても人間としても成長できるのだから。さらにまた別の庭に行く。こうやって俺は、今の〝イブラ〞を形成していった。
だからといって、生涯同じユニフォームを着て過ごしたパオロ・マルディーニやフランチェスコ・トッティが弱虫で怖がりだと言ってるわけではない。俺は彼らのことは尊敬しているし、それぞれ性格が違うのだ。
俺にとって、生涯同じ場所にいるということは難しい。次第に落ち着かなくなり、新たな挑戦が必要になるんだ。
<了>