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60万人以上の教え子たちからセルジオ越後が学んだ大切なこと。「教えてください」ではなく「もう一度見せてください」

REAL SPORTS 2023年2月10日 12時16分

スポーツ界・アスリートのリアルな声を届けるラジオ番組「REAL SPORTS」。元プロ野球選手の五十嵐亮太、スポーツキャスターの秋山真凜、Webメディア「REAL SPORTS」の岩本義弘編集長の3人がパーソナリティーを務め、ゲストのリアルな声を深堀りしていく。今回はゲストに、サッカー解説者のセルジオ越後氏が登場。昨年、来日50周年を迎えた日本サッカー界の功労者に、これまでの自身のキャリアと、25年近く続けてきたサッカー教室の取り組みについて聞いた。

(構成=磯田智見、写真提供=JFN)※写真は向かって左から五十嵐亮太、セルジオ越後、秋山真凜、岩本義弘

42年前、サッカー日本代表の森保監督もセルジオ越後のサッカー教室に参加していた!?

秋山:セルジオ越後さんと岩本さんは、初めて一緒にお仕事をされて以来、とても長いお付き合いだと聞きました。

岩本:初めて仕事でご一緒したのはもう24、25年前になります。当時は取材をする編集者と取材を受ける解説者という関係でした。現在はセルジオさんのマネジメントを務めさせてもらっています。

五十嵐:そんなに長いお付き合いなんですね。

岩本:さらに遡れば、小学4、5年生のころにセルジオさんが全国各地で開催していた「さわやかサッカー教室」に参加し、サッカーの魅力や楽しさを教えてもらったのが初めての出会いでした。当時の僕は10歳前後でしたから、40年近く前のことになりますね。

五十嵐:セルジオさんにとっては、当時10歳だった少年が大人になり、いつしか一緒に仕事をするようになって、「僕、実はあのときのサッカー教室に参加していたんです」と声をかけられるケースも多いんじゃないですか?

セルジオ:ありがたいことに、そういう声をかけてくれる方はたくさんいます。子どものころに「さわやかサッカー教室」に参加し、将来的にJリーガーになって、さらには日本代表にまで上り詰めた選手もいます。ただ最近では、そういう選手たちが現役を退き、解説者になって僕の仕事を奪おうとする動きがよく見られますね(笑)。

岩本:確かにそうかもしれませんね(苦笑)。昨年末にセルジオさんの来日50周年記念パーティーを開催しましたが、会場に足を運んでくれたサッカー日本代表の森保一監督も、「さわやかサッカー教室」に参加したことがあるそうです。

セルジオ:森保監督は、42年前に長崎で開催したときに参加してくれたと言っていました。

秋山:42年前に将来の日本代表監督も参加していたんですか!?

僕が何年もかけて取り組んできたことを、『キャプテン翼』はわずか1年で成し遂げた

岩本:セルジオさんは20数年にわたってサッカー教室を開き、今では教え子が60万人にも上ります。だから、日本のサッカー関係者の多くが、子どものころにセルジオさんからサッカーを教わっているんです。

五十嵐:60万人というのはすごい数ですね。サッカー教室を行っている最中、「この子は将来的に伸びそうだな」と思うこともあるんですか?

セルジオ:僕の取り組みは選手を育成したり、チームを強化しようとしていたわけではありません。全国各地の子どもたちと触れ合い、サッカーの楽しさや面白さを伝えて、“サッカー好き”を一人でも増やすことを目的とした普及活動なんです。

 「さわやかサッカー教室」を立ち上げた当時は、全日本少年サッカー大会(現・JFA 全日本U-12サッカー選手権大会)が始まったばかりで、今のようにどこでも子ども用のサッカーグッズを買えるような時代ではありませんでした。高校生になって初めて本格的なサッカーの指導を受けたという選手も少なくありませんでしたから、子どものころからサッカーに親しんでもらいたいという思いを込め、普及事業として行っていたんです。

岩本:「さわやかサッカー教室」の活動を行うなか、『キャプテン翼』の原作者である高橋陽一先生との出会いもあったそうですね。

セルジオ:そうですね。僕が全国各地に足を運んで普及活動に取り組んでいたところ、高橋先生は『キャプテン翼』を描き始め、連載開始とともに爆発的に人気が高まりました。

五十嵐:やはり、『キャプテン翼』をきっかけにサッカーを始めた子どもも多かったのでしょうね。

セルジオ:僕が何年もかけて取り組んできたことを、『キャプテン翼』はわずか1年で成し遂げていました。『キャプテン翼』を読んだ子どもたちはサッカーに夢中になっていましたからね。

岩本:ちなみに、日本サッカー界の功労者であるセルジオさんと高橋先生は、誕生日が同じなんですよね。お二人とも7月28日生まれで、『キャプテン翼』の大空翼も誕生日が一緒です。

秋山:とてもご縁が感じられますね!

入社の時点で100枚も名刺をもらったのに、2年間で10枚程度しか渡す機会がなかった

五十嵐:セルジオさんは50年前の来日当初から、ずっと日本で暮らしていこうと考えていたんですか?

セルジオ:いえ、そう考えていたわけではありません。選手として藤和不動産サッカー部(現・湘南ベルマーレ)と2年契約を結んでいましたから、まずは2年間頑張ろうという気持ちでした。

岩本:当時はまだJリーグがなかったため、日本のサッカーチームはすべてアマチュアでした。

セルジオ:その点も僕にとっては検討事項の一つでした。当時の僕はブラジルで現役を退き、3年ほどサラリーマンとして営業を担当していました。そんな僕のもとに日本からオファーが届いたものですから、「どうするべきか?」と勤めていた会社の社長に相談しました。すると社長から、「こんなに恵まれたチャンスを逃すつもりか?」と聞かれました。そして、「自分は息子を海外に留学させてやりたいと思って一生懸命働いているのに、君は日本へ留学ができるうえに現地で給料がもらえるんだろう? もし君が行かないのなら、私の息子を代わりに紹介してくれ」と言われたものです。

 もともと僕のなかには、言葉や食事など日本の生活様式に触れ、母国とは異なる文化を学ぶという発想が全くありませんでした。サッカーをする環境やレベルがどうかということばかりを考えていたんです。だから社長の話を聞き、「そういうスタンスで日本に行くことは将来的に自分のためになる」と思い、日本行きを決めました。

秋山:来日に際してはそのような経緯があったんですね。

セルジオ:ただ、来日したのはいいけれど、実際の生活はほぼサッカーを中心に回っていました。聞けば、チーム強化のために午前も午後も練習を行うとのこと。「なんだこれは? プロではないと聞いていたのに、プロ以上に選手を拘束するじゃないか!?」と思いましたし、自分の想像とは異なる環境でしたから、結局2年後に退団することにしました。

岩本:当時、セルジオさんはサッカーばかりではなく、日本の文化を学んだり、会社員としてきちんと仕事をしたかったんですよね?

セルジオ:そうなんです。入社の時点で100枚も名刺をもらったのに、2年間で10枚程度しか渡す機会がありませんでした。それに、チームにはマネージャーがいましたから、例えば試合に向けた移動や宿泊の手配など、ピッチ外のことはマネージャーが全部やってくれました。それはそれでありがたいと思いつつ、個人的には全然勉強になりませんでした。僕は日本語を勉強しながら、日本の多様な文化に触れたいと思っていました。留学といえば、やはり現地でさまざまな体験をすることがポイントになります。ただ、よくも悪くもマネージャーがすべて対応してくれる環境では思い描いた体験はできないし、それでは日本に来た趣旨とは異なる。だからチームを退団して、ブラジルに帰ることにしたんです。

 その後、永大産業サッカー部というチームが誕生し、「選手としてではなく、スタッフとして監督とチームのサポートをしてもらえないか?」というオファーをもらいました。任務の一つには、チームのPRのために日本全国を回るという内容も含まれていて、それは勉強になるし面白そうだと引き受けました。そこから多くの方々との出会う機会に恵まれました。

「外から見ているだけでサッカーを楽しんだり、うまくなるなんて不可能じゃないか!?」

岩本:セルジオさんは以前、「日本で多くの人と出会って、たくさんの友だちができた。それこそが財産」と話していました。

セルジオ:そのとおりです。そのなかの一人に、当時、サンケイスポーツの編集局長を務めていた賀川浩さん(サッカーのワールドカップを10大会取材したキャリアを持ち、現在98歳の現役最年長記者。日本人として初めて国際サッカー連盟会長賞を受賞)がいます。彼との出会いがあったからこそ、僕は日本で50年間を過ごすことになったんです。永大産業サッカー部は約5年間で廃部となったため、再びブラジルへ帰国しようと考えていました。そんなときに賀川さんが、日本サッカー協会が力を入れ始めた全国への普及活動に僕を推薦してくれました。それがきっかけとなり、1978年に北は北海道の稚内、南は沖縄の宮古島まで全国を回る「さわやかサッカー教室」がスタートしたんです。

秋山:もし賀川さんからのお声がけがなかったら、ブラジルに帰国していたんですか?

セルジオ:賀川さんとの出会いがなかったら、僕は日本を離れていましたね。そういえば、「さわやかサッカー“教室”」という名前にしたのは賀川さんでした。「どうして“教室”なんですか?」と聞いたら、「日本でサッカーをする場所といえば学校だからだよ」と返ってきました。でも、のちに賀川さんは「サッカー教室という名前にしたことは失敗だった」と話していました。

五十嵐:何が失敗だったんですか?

セルジオ:「“教室”としたことで、大人が子どもに対して教えたがるようになった」と。そしてこう続けました。「サッカーは“させるスポーツ”であって、“教えるスポーツ”ではない」。学校という位置づけだと、やはり先生と生徒の関係になってしまい、施設のなかで教える、教わるという状況になってしまうんです。

五十嵐:なるほど。ちなみに、「さわやかサッカー教室」には、サッカー経験者も未経験者も参加していたんですか?

セルジオ:経験者はもちろん、普及活動ですから未経験者もいましたね。ただ、未経験の子どもはあまり積極的に輪に加わってこなかったので、僕は「君もこっちに来て一緒にやろう!」と声をかけたところ、「僕は見学者として来たので……」と言われました。そのときに初めて“見学”という言葉を聞き、さらに「見学をしに来た」という事実にびっくりしました。「外から見ているだけでサッカーを楽しんだり、うまくなるなんて不可能じゃないか!?」と。この点についてはサッカーに限らず、日本全体にどこかそういう雰囲気があったのかもしれません。

五十嵐:ああ、確かに日本人としてはそういう感覚もわからなくはないですね。

セルジオ:僕自身がこの普及活動に取り組み続けて今でも誇りに思っているのは、参加者のなかからプロサッカー選手が誕生したことではありません。僕は“スタジアムの観客席を埋める”という仕事の一端を担い、結果的にプロリーグであるJリーグの誕生に少なからず貢献できたことなんです。

 どの国でも、サッカーの試合が行われるスタジアムの観客席には、“プロの選手になりたい人”と“なれなかった人”が数多く詰めかけます。その点で、日本では長らく“ピッチに立つ選手を輩出する”という指導を行ってきました。残念ながら、それではプロリーグは生まれません。ピッチに立てなかった者は、サッカーに対してネガティブな感情を抱いてしまうからです。先ほど、僕が関わった子どもたちの数は60万人に上ると紹介してもらいましたが、それだけいてもプロサッカー選手になれるのはごくわずか。それでも、プロになれなかった大多数の参加者がサッカーに夢中になり、大人になって観客としてスタンドを埋めてくれるようになりました。それが興行として成立したことから、Jリーグが誕生したわけです。

五十嵐:素晴らしいプロセスですね。個人的には、その発想を野球界にも反映させたいと思うくらいです。

セルジオ:どのような分野でも、社会には“なれなかった人”のほうが多い。それが社会の構造なのだと思っています。

秋山:この考え方はどのスポーツにも、どの競技にも通じる部分ですね。

子どもは目から情報を得て、年齢を重ねるごとに徐々に理屈を理解し始める。一方、日本では…

五十嵐:セルジオさんが来日したころ、どのあたりにブラジルとの違いを感じましたか?

セルジオ:ほぼすべて違いました。車線は逆ですし、相手と握手をしようと思ったら頭を突き出してくるし(笑)。

秋山:日本人は握手よりもお辞儀をする傾向がありますからね(笑)。

セルジオ:それに、家に入るときには靴を脱がなくてはいけないし、一方で靴を履いたままでも許される場所もある。本当に全部と言っていいくらいブラジルとは習慣が違いましたし、いろいろと慣れるのに大変でした。

 また、サッカーに関してもやや理解に苦しむ部分も少なくありませんでした。というのも、当時の日本でサッカーの情報を得られるのは専門誌しかなく、映像を見られる機会はほぼありませんでした。みんな、「サッカーとはこういうものだろう」と想像しながらプレーしていたのです。だからこそ、僕自身が“動くお手本”となり、さまざまな技術を子どもたちに見せようと思いました。どんなジャンルのことであっても、子どもは物事を理屈で覚えるのではなく、見て覚えるケースのほうが多いでしょう。見て、真似て、できるようになる。その「できた!」という喜びがきっかけでサッカーが楽しくなり、好きになる。僕自身、「さわやかサッカー教室」をやって勉強になったことがあります。サッカーボールを使って足技を見せたとき、子どもたちは「そのやり方を教えてください」ではなく、「もう一度見せてください」とお願いしに来るんです。

秋山:確かに! 子どもたちはそう言うような気がします。

セルジオ:子どもたちは映像や動くものに強い関心を寄せますから。順番としては、目から情報を得て、年齢を重ねるごとに徐々に理屈を理解し始める。一方、日本での教育や指導現場では、理屈から入る傾向があるんですよね。

五十嵐:そうなると面白さが欠けてしまう部分がありますよね。セルジオさんが子どもたちにサッカーを教えるときは、テクニックの実践をメインに行うんですか?

セルジオ:実際にテクニックを見せて、一緒にプレーします。子どもたちはできないことに憧れを抱きますから、さまざまなテクニックを繰り返し見せます。そのなかで、誰か一人ができるようになると全体に一気に火がつくんですよね。次第に僕の周りではなく、できた子の周りにみんなが集まるようになる。「次は自分も」という熱が、周囲に伝播していくんです。

 「さわやかサッカー教室」は会場ごとに何百人もの子どもが集まります。最初は子どもたちに大きな円を作って座ってもらい、僕はその中心で足技を披露していました。それが気づくと、子どもたちがどう動いたのかわからないんですが、いつの間にか円がとても小さくなっているんですよね(笑)。

岩本:僕も同じことをやっていました(笑)。みんな近くでセルジオさんのテクニックを見たいから、いつの間にかギューッとすごく小さな円になっているんですよね。

セルジオ:僕がテクニックを見せたあとには、必ず子どもたちに実践させるんです。そこで一人の子どもに「おっ! 君、うまいな!」なんて声を掛けると、参加者のなかでその子が一気にヒーローになるんですね。すると周りの子も、「僕も! 私も!」と熱を帯びてくる。そしてサッカー教室の時間が終わっても、多くの子どもたちがグラウンドに残って一生懸命チャレンジし続けているんです。「さわやかサッカー教室」を始めて以来、そういった子どもたちの姿は鮮明に覚えていますし、僕のなかでは今でも忘れられない大切な思い出になっています。

<了>






[PROFILE]
セルジオ越後(せるじお・えちご)
1945年7月28日生まれ、ブラジル出身。日系2世。サッカー解説者。18歳で母国の名門・コリンチャンスとプロ契約。非凡な個人技と俊足を生かし右ウイングとして活躍し、ブラジル代表候補にも選ばれた。1972年に来日し、藤和不動産サッカー部(現・湘南ベルマーレ)に所属。魔術師のようなテクニックと戦術眼で日本国内のサッカーファンを魅了した。来日当時からサッカーの普及に熱心に取り組み、1978年からは日本サッカー協会公認「さわやかサッカー教室」(現アクエリアスサッカークリニック)の認定指導員として全国各地で子どもたちへの指導にあたる。1000回以上の教室で延べ60万人以上の子どもたちに、ユニークな指導法とユーモア溢れる話術を通してサッカーの魅力を伝えた。2006年、文部科学省生涯スポーツ功労者表彰受賞。2013年、日本におけるサッカーの普及を評価され外務大臣表彰を受賞。2017年、には長年にわたる公共や社会に対する功労と功績から旭日双光章を受章した。現在はHC栃木日光アイスバックスのシニアディレクター、JAFA日本アンプティサッカー協会スーパーバイザーとしても活動中。


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パーソナリティー:五十嵐亮太、秋山真凜、岩本義弘


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