2021年に続き、2023年にも箱根駅伝で優勝。前年の出雲駅伝、全日本大学駅伝と合わせて大学駅伝3冠も果たした駒澤大学陸上競技部。2004年から監督を務める大八木弘明は、2008年からしばらく箱根駅伝で勝てていなかったチームの再建のため、まずは自身の指導法を改め、新しい時代に合った指導方法に変え、選手を変え、組織を変えたのだという。そこで本稿では、今年1月に刊行された書籍『必ずできる、もっとできる。』の抜粋を通して、大八木監督が栄光から遠のいていたチームを復活させた過程を振り返る。
(文=大八木弘明、写真=水上俊介)
時代とともに若者の気質も変わる。ではどう対応するべきか?2008年から13年間、箱根駅伝で勝つことができなかった。〝常勝軍団〞と言われたチームは栄冠から遠のき、私自身の熱意も一時的に失われてしまった。だが幸いなことにその事実に向き合い、周りの支えもあって、再度、熱意を取り戻すと同時に、私自身が時代に合わせながら少しずつ指導を変えていくことができた。
年齢を重ね、実績を積み上げていくと、人は自分のやり方に固執してしまう、という話をよく聞くが、私自身もそうなってしまっていたと、今、振り返って思う。
選手たちの気質や性格の変化に対応できなかったことも、箱根駅伝で長く勝てなかった大きな理由として挙げられる。「私の学生時代、チームのなかで監督の存在は絶対だった」。当時を知るコーチの藤田敦史はそう語っている。
実際、私はワンマンな監督だったと思う。常に問答無用の姿勢で、力で選手を押さえつける指導をしてきた自覚がある。実際、そのやり方でチームを作り上げ、それなりに結果も残した。コミュニケーションは常に私から選手への一方通行が基本だったが、それでも以前は言い返してくる選手が少なからずいたし、「なにくそ、見返してやる」とう反骨心をむき出しに走る選手もいた。
藤田もその一人であり、2000年代前半に箱根駅伝を4連覇した当時はそんな選手ばかりだった。言葉で反発できない者は走りでそれを示し、私をうならせた。選手たちが厳しさに慣れていた感じがあったし、私と選手がそれぞれに厳しさをぶつけ合うことで強さが生まれていたような気もする。
しかし、今の若い選手たちはそうした指導に慣れていない。慣れていないことに気がつかず、私がワンマンな指導を続けてしまったことが問題だった。そうすると選手たちは委縮してしまい、何も返してこない。もちろん私に反発する気持ちを抱いた選手もいたはずだが、それを表現することはなく、コミュニケーションが一方通行のまま終わってしまうのだ。
受け止め方とすれば「監督にキツく𠮟られてしまった。自分はやっぱりダメだ、もうやめよう」という選手が多いような気がする。自信がなくなり、競技への前向きな気持ちを失ってしまう。そうなれば、もうこちらの声は一切、耳に入らない。ただただ毎日がつらいだけだ。
そして私は普段、選手をほとんど褒めることはなかった。選手にしてみれば、𠮟られてばかりで認めてもらっていないと感じたはずだ。私は選手と指導者の間に緊張感は必要と思っていたが、そうした行動を繰り返すうちに、いつしか選手の心は離れていってしまったのである。
すぐには叱らず、雰囲気を変え、話しやすい状況を作る変わろうと思ったとき、「自分はなぜ𠮟ってばかりいるのだろう」と自問自答してみた。選手を強くしたい、頑張ってほしい、という思いをそのままストレートに表現すると、私はどうしても強い口調になってしまう。そのため、なるべく柔らかい言葉を使うように意識し、言葉遣いも優しくするように努めた。
たとえば朝練習から気の抜けた走りをしていた選手がいると、以前は朝練習の段階で𠮟っていたが、今はそこではあえて何も言わないようにした。そして、午後の本練習でも設定ペース通りに走れないようであれば、そこで初めて、「しっかり走れなかった理由はどこにあると思う?」と、理由を本人に問いただすようにしてみた。
そうすると選手は自分なりの答えを返してくる。準備不足だったことがわかっていれば、そこがダメだと正直に反省の弁を述べ、改善を誓う者もいる。逆にごまかしたり、本当に走れない理由がわかっていなかったりする選手には「朝練習のときから午後の練習をイメージして走っていなかったんじゃないか?」と、こちらの考えを示すようにした。そしてもう一度、自分なりに考えてみろと預けてみる。ここですべての答えを示すことはない。
その結果、改善した選手は進歩を見せる。𠮟られて変えたのではなく、アドバイスこそ受けたものの、自分なりに行動を変えて、うまくいったという自信を手にすることができる。一方、何度も同じ失敗を繰り返す者もなかにはいる。仏の顔も三度までで、その場合は容赦しない。
「俺は何回も言っているよな? なんで同じことを繰り返すんだ? やり方がわからないならば、なんで聞きにこないんだ?」
そう言って突き放す。そこからはアドバイスはしない。選手もまずいと思うのだろう。ここでようやく危機感を持って、行動を変えてくる。今のところ、この方法でうまくいくケースが多い。大きな声で怒鳴る機会は本当に少なくなった。
まずは選手に任せてみる。自分で決めたことはやり通させる選手とのコミュニケーションを重視するようになると、彼らも積極的に自分の意見を言ってくるようになった。練習メニューも、こちらの提案に対し「僕はこうしたいと思います」と言ってくる場面が増えた。
こちらが何を言っても空返事だけして、何を考えているかわからない選手より、こうして自分の考えを言ってくれるほうがありがたい。基本的には彼らの考えを重視したいが、ときには「明らかにそれは違うな」と思うこともある。
以前であれば頭ごなしに否定したが、最近は「わかった、ならば少しやってみろ」とやらせてみるように変えてみた。
たとえば自分のやりたい練習メニューがあると言ってきた選手には、2週間ほど好きにやらせてみる。そうすると、うまくいかない選手は「やっぱり監督の言う方法にします」と言ってきたり、「やってみたけれど、どうもうまくいかないんです。どうしたらいいですか?」とアドバイスを求めてきたりする。
一度、自分でやってみたことで感じたものがあるのだろう。そこから先はこちらの意見にも耳を傾けてくる。
かたくなに意見を曲げない選手もいる。それでうまくいかなくても自分で言い出したこともあり、引くに引けず、意地になってしまう者もなかにはいる。やりたい練習を自分で決めたはずなのにそれがこなせなかったり、続かなかったりしても、そのまま中途半端にダラダラと続けるケースだ。そのときは𠮟らないまでも注意は促す。
「自分で決めたことはやり通せ。逃げるな」
ただ、さすがにそのままにしておくわけにもいかないので、早めに軌道修正をする。なぜこの練習をするのか。どんな狙いがあるのか。その結果、選手にどうなってほしいのかを切々と説明する。
これも以前であれば省いていた部分ではあるが、この説明は今は絶対に必要だと思う。選手が心から納得しない限り、心にわだかまりが残るからである。そんな状態で練習をしても効果は期待できない。
結果的には初めから強制的にやらせたほうが無駄な時間がないのだが、選手たちはまだ大学生であり、こうしたことも重要な経験だ。人は失敗から学ぶものである。失敗しないに越したことはないが、そこで試行錯誤しながら学び、成長してくれればいいと私も思うようになった。
平成の常勝軍団から令和の常勝軍団へかつて駒澤大学は「平成の常勝軍団」と言われていた。私がコーチに就任した1995年(平成7年)以降、平成の間に箱根駅伝は4連覇を含む、優勝6回。箱根駅伝だけでなく全日本大学駅伝も平成の間に12回優勝を果たした。
常勝を意識したのは4連覇している間からだ。私たちは競技スポーツをやっているのであり、目指すのは常に頂点でなければならないと思う。それは最も高い目標を手にすることで、自分たちのやってきたことに対する自信と誇りを手にできるためだ。
そこで手にしたものは、卒業後に競技を続けるにしても、引退して他の世界に進むにしても、大きな財産になる。もちろん勝つことで頑張ってきた教え子たちに脚光を浴びてほしいという思いもある。
だが、チーム状況によっては優勝を目指せない年もある。そんなときは確実に「3番以内」に入ることを目指すようにしている。この順位を手にできれば最低限、選手たちも決して自分たちの努力が間違っていないことを確認できるし、チーム作りの目で見ても次年度に期待をつなぐことができる。
また重要なこととして、3位以内にいると、優勝したチームとの差を現実的なものとして受け止めやすいのだ。勝ったチームはなぜ勝ったのか、それと比較して自分たちには何が足りなかったのかを考えやすい。
逆にこれが10位くらいまで落ちると、タイム差にもよるが、優勝チームは手が届かないところとなってしまう。もちろんそんな年もあるし、それはそれで仕方がない。
ただ、箱根駅伝は同じ学生同士の勝負で、年齢も持っている能力もそこまで大きくは変わらない以上、やはりトップの背中が見える位置、その背中までの距離を把握できる状態でいたいと思う。
個人を伸ばし、その力を結集できるチームへ2021年(令和3年)の箱根駅伝で勝ったことで、次は「令和の常勝軍団へ」といった励ましの声をいただくことが増えた。
もちろんそこを狙っていくべきだと思うが、「平成」と同じやり方ではそれは果たせない。「平成」は個人を重視するのではなく、こちらのやり方に選手が合わせるよう一方通行の指導をしてきたし、まずは「チーム作り」という意識があったように思う。
しかし「令和」の駒澤大学は自主性や個性を尊重していくやり方になっていくだろう。まず「個人ありき」と言ったら言いすぎかもしれないが、感覚的にはそれに近い。箱根駅伝を学生の間の最大の目標とすることはこれまで通りだが、未来のある選手たちにとってそれは人生のなかの通過点でもある。その先にある大きな夢への過程で挑むという意識も重要だろう。
同時にこの大会を競技面の最大の目標に置く選手も多く、そこにも真摯に向き合っていかなければならない。となると選手の数だけ、目標が生まれ、ここに向き合うのは時間的にも労力的にも大変なことになるだろう。
しかし、私のあとを継ぐ指導者には、それを真正面から取り組んでほしいと思っている。個人を伸ばし、その力を結集してより力を発揮するチームへ。そんなかたちを目指してほしい。
選手たちが自ら3冠を勝ち取った大学3大駅伝2022年、駒澤大学陸上競技部の選手たちはこれまでとは違った。4年生が春から「今年度は3冠を達成しよう!」と言い始めたのである。「今年はやるんだ、やれるんだ」という選手たちの強い意志が感じられた。
10月の出雲駅伝、11月の全日本大学駅伝、1月の箱根駅伝の3つが「大学3大駅伝」と言われている。1シーズンでこの3つをすべて制するのは並大抵のことではない。過去にも年度3冠を達成した大学は数えるほどしかない。
彼らが自発的に勝ちたいと思うようになったのはなぜか。どうやら「監督も年齢が年齢だけに、引退が近づいてきている。監督がまだ成し得たことのない3冠をプレゼントしてあげよう」と思ってくれたらしい。それは今までの指導歴で初めて聞く言葉だった。
今の選手たちは私に対して、厳しいだけの指導者というイメージはあまり持っていないのではないかと思う。昔に比べて、選手たちとの距離感は確実に近いものになっている。今も私が厳しいだけの監督であったなら、選手たちから3冠を狙おうという気持ちが芽生えなかったかもしれない。私が変わったことで、選手たちも変わったのだ。
「今年は自分がレギュラーになるんだ」という選手同士の切磋琢磨もあった。しのぎを削る練習であふれていった活気。1年生から4年生まで、学年ごとにエース格がいて、エース格に近づこうとみんなが頑張った。学年で一人しかレギュラーになれないとき、学年ミーティングで「なぜ他の選手は上がってこられないのか、上がっていかないとだめなんじゃないか」と選手同士が話し合い、少しずつレベルが上がっていった。
おかげで2022年度は出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝のすべてをチームが良い雰囲気で戦うことができ、優勝を手にできた。選手の層が厚く、エースもいて、個々のレベルが高かったというのもあるが、気持ちの面でのレベルが例年より高かったように思う。
<了>