3つの言語を操る国際色豊かなバックグラウンドを持つダニエル太郎は、かつて守備的なテニスプレーヤーだった。しかし、2020年以降、攻撃的なテニスへとスタイルを劇的に変化させている。そのきっかけとなったのは、ロジャー・フェデラーやマリア・シャラポワらのコーチを歴任してきたスベン・グローネフェルト。思考とプレーの戦略の幅を広げ、「テニスのゲーム性を楽しめるようになった」ダニエルが今季、さらなる「前進」を見せている理由とは?
(文=内田暁、写真=Getty Images)
国際色豊かなバックグラウンドで培ったパーソナリティテニスプレーヤー、ダニエル太郎——。
彼のプレーを見たことはなくても、耳に残るこの名前を、記憶している人は多いかもしれない。190cmを越える長身に、髪をやや長く伸ばしたベビーフェイス。アメリカ人の父と日本人の母を持ち、生まれはニューヨークで、テニスに出会ったのは幼少期を過ごした埼玉県。その後、より良い環境を求めてスペインに移り住み、20代半ばまで拠点とした。
好きなミュージシャンは、ピンクフロイドやレッドツェッペリン。好きな映画は、『アベンジャーズ』シリーズのような娯楽大作から、インディーズ系までと幅広い。英語に日本語、そしてスペイン語を解し、それらの言語を操り自らの思想を哲学的かつ詩的に紡ぐ。
今年2月に30歳を迎えたダニエルは、多様な環境で触れてきた多彩な文化を、全身で伸び伸びと吸収し程よくブレンドしたかのような、芳醇でカラフルなパーソナリティの持ち主だ。
テニスは、究極の個人競技だといわれる。ひとたびコートに足を踏み入れれば、どこまでも一人で様々な局面を打破し、自己表現しながら戦い抜かなくてはならない。しかしだからこそ、彼・彼女たちのコート上の孤独な姿には、その選手が育ってきた境遇が、触れてきた文化が、あるいは関わってきた人びとの想いや夢が、時に切ないまでに投影される。ダニエルのように国際色豊かなバックグラウンドを有し、キャリアを通じ練習環境や指導者も変えてきた選手ならば、プレースタイルが変容していくのも当然だろう。
「テニスがいつの間にか、辛いものになっていた」ジュニア時代から20代後半まで、コート上の彼は“守りの人”だった。ベースライン後方に構え、来たボールを一途に追い、一打一打、魂を込めるように声を上げて打ち返す。良く言えば、堅実。悪く言えば、相手のミス待ち。多彩でユーモアあふれるコート外での立ち居振る舞いとは、対照的なスタイルだった。「テニスがいつの間にか、つらいものになっていた」と、ダニエルは回想したことがある。「コート上では、いつも自分を叱っていた」とも。
ミスをしては、自分を叱咤する。ボールを追う足が止まると、努力が足りないと自身を責める。「スペイン的なミスをしないテニスに、日本人的な真面目さが加わり、エクストリーム(extreme)になってしまった」と、内罰的性向を自己分析したこともあった。“Extreme”はここでは、「極端な/行き過ぎた」の訳が相応しいだろうか。スペインを離れる決意をしたのは、そのような自分を変えたいと思ったからかもしれない。
スペインを去った2017年からは、日本とアメリカ、当時家族が住んでいた欧州を拠点とし、以前よりも攻撃的なテニスを模索した。特にこの当時、コート内外でダニエルが多くの助言を求めたのが、父のポールさんである。
ダニエルにとってテニスは、父が与えてくれたものだ。「お父さんは、テニスを楽しめれば人生も楽しめるんじゃないかと考え、テニスを教えてくれた」と、自身の原点を回想したこともある。子どものころのように父親の球出しでボールをひたむきに打ち、その結果至ったのが、2018年5月のATPツアー初優勝。
「上達し続ければ、いつか必ず上に行ける」
父子で共有した想いが、一つのマイルストーンに達した瞬間でもあった。
攻撃的スタイルへの変化を導いたスベン・グローネフェルトとの出会いこの優勝時にダニエルが口にした「自分のテニスを改善し続ける」の目標に、一気に加速がついたのが2019年末。ロジャー・フェデラーやマリア・シャラポワら、世界1位のコーチを歴任してきたスベン・グローネフェルトを雇った時である。
「僕はこれまで、今やっていることを続けていけば、上に行けると信じていた。でも僕も20代後半。何か大きく変えなくては、この先は難しいと感じた」
名伯楽の門をたたいた理由を、当時のダニエルはそう語っている。そしてこの頃を境に、彼のテニスは、劇的に進化し始めた。
「太郎のコーチに就任した時、真っ先に取り組んだのは、彼の内面を変えることでした」
穏やかな笑みを湛えつつ、柔和な語り口でグローネフェルトが始まりの時を回想する。「太郎と心を通わすのは、難しかった」というグローネフェルトの言葉は、社交的な印象の強いダニエル評としては意外に響く。ただ、日本でコーチキャリアをスタートし、スイステニス協会のヘッドコーチも務めたオランダ人指導者は、次のように分析した。
「太郎はコミュニケーションが上手ですが、彼と本当の意味で深くつながるのは難しい。彼は悩みを内に抱え、自分一人で解決しようとする傾向があるからです」
そう語るグローネフェルトは、「先入観込みかもしれませんが」と前置きした上で、こう続けた。「太郎は、極めて日本人的です」と。
そのダニエルと真の意味で「つながる」ため、グローネフェルトがしたことは、旧知のスポーツ心理学者のジャッキー・リールドンを招くことだった。テニスのみならず、水泳選手やオペラ歌手の指導経験も持つリールドンは、ダニエルの日常的な思考にも新たな視座を与えたという。特に大きかったのは、「ミスすると自分をパニッシュ(罰する)する考え方を、変えるように言ってくれたこと」。
その思考法こそが、グローネフェルトが標榜する「攻撃的スタイル」の確立に不可欠なパーツだった。
コーチ就任直後、グローネフェルトが技術面で真っ先にメスを入れたのは、フォアハンドだ。テイクバックをコンパクトにし、ベースラインに近い位置でボールを捕え、深く鋭いショットを打ち込む。相手の態勢を崩したらネットに詰め、ボレーで仕留めることもコーチは求めた。そのためにラケットの長さや、ストリング(ガット)も見直す。まさに土台から用具に至るまで、テニスを作り変えていった。
もちろん攻撃的なテニスは、リスクを伴う。手持ちの札の増加は戦略の幅を広げるが、それは時に、迷いや疑念の源泉にもなる。だからこそグローネフェルトやリールドンは、ダニエルに内面の変化を求めた。挑戦した結果のミスは良しとし、次のプレーに気持ちを切り替える。そのようなメンタリティと技術の習得が合致した時、ダニエルは「テニスのゲーム性を楽しめるようになった」と言った。
“観客の思い”を共有した大谷翔平とのアイコンタクトそして今季、グローネフェルトはさらに一歩進んだ“つながり”を、ダニエルに求めている。それが「観客を味方につけ、パワーを得ること」だ。
その真意とは? グローネフェルトが、力説する。
「客席のファンの目をしっかり見ることを、太郎に進言しました。誰でもいい、客席に自分を応援してくれる人を見つけて、目を見る。するとファンは、『自分を見てくれた、つながることができた!』と思う。ジャッキー(・リールドン)も、太郎にその重要性を説いてくれました。太郎は最近、それができるようになってきたんです」
その成果は、早くも結果に表れはじめている。今季のダニエルは、4位(対戦当時)のキャスパー・ルードを筆頭に、多くのトップ選手から勝利を得てきた。特に象徴的だったのは、3月のBNPパリバオープンで、マテオ・ベレッティーニを破った一戦だ。試合中のダニエルは、ポイントを奪うと拳を振り上げ、咆哮を上げて、客席の一点を凝視する。その視線の先に居たのは、ダニエルに熱狂的な声援を送る若者たち。てっきりダニエルの友人かと思ったその一群は、「友人じゃないよ、僕たちは純粋な“太郎ファンクラブ”さ!」と笑った。
奇しくも……というべきか。実はダニエルはこの大会の直後に、自らが観客として、選手と“つながる”体験をした。それはマイアミで行われた、ワールドクラシックベースボール準決勝。自身も大会出場のためマイアミに居たダニエルは、球場に足を運び、そこで大谷翔平と「視線が合った」と感じた。
「9回裏に大谷さんがヒットを打って2塁に立った時、僕のいた客席の方を見て、煽るように手を振り上げたんです。もちろん僕を見た訳ではないけれど、『目が合った』と感じて、僕もものすごく気持ちが上がった。ふだんは、僕はファンに対してやる立場なんですが、逆の立場から見てエネルギーを感じられたのはうれしかったですね」
この体験の数日後、ダニエルはマイアミオープン2回戦で、15位のアレクサンダー・ズベレフに完勝する。コーチの教えを観客の立場で確信し、コート上で実戦して得た勝利。その一連の体験を振り返り、「知らない人の目を見るとか最初は恥ずかしいとも思ったんですが、本当に力をもらえるんだと感じたのは、すごく良い経験でした」と、恥ずかしそうに笑った。
目標は「強い人間になること」人生観とテニスは不可分と捉えるダニエルは、ここ最近の好成績にも「人生と一緒で、また大変な時も来ると思う」と、達観した口ぶりで言う。
「本か何かで、『数年前の自分を振り返った時に、恥ずかしいと感じなければ、それは成長していないということだ』というのを読んで、そうだなと思ったことがあったんです。これまで僕は、幸せになることが人生では大事だと思っていました。でも『幸せ』っていうのは、ただの感情なので通り過ぎていく。それよりも、自分が影響を受けるいろんなものに対して、何を感じていくかが大切だと気付きました。外界で起きていくことに対して、自分がどれだけ上手く、しっかり地面に足をつけて、耐えられるか? その強さを、自分に求めています」
それが、前の自分とは違うところというか、ちょっと成長したところかな――そう言い彼は「ふふっ」と笑い声を漏らし、照れたように相好を崩した。
テニスプレーヤー、ダニエル太郎。現在30歳、世界ランキング109位。目標は、「強い人間になること」である。
<了>