スポーツ界・アスリートのリアルな声を届けるラジオ番組「REAL SPORTS」。元プロ野球選手の五十嵐亮太、スポーツキャスターの秋山真凜がパーソナリティーを務め、ゲストのリアルな声を深堀りしていく。今回はゲストに、長年にわたり日本の競泳界をけん引し、リオデジャネイロ五輪400m個人メドレーで金メダルを獲得した萩野公介さんが登場。改めて振り返る現役時代、引退後の取り組み、今夏福岡で開催される世界水泳や来年のパリ五輪の注目選手など、さまざまなテーマについて話を聞いた。
(構成=磯田智見、写真提供=JFN)
「なぜ泳ぐのか?」。多くの人の答えを聞いてみたい五十嵐:萩野さんは2021年8月に現役を引退。ずいぶん生活のリズムが変わったのではないですか?
萩野:競技に打ち込んでいた時間がそのままそっくりなくなりました。ただ今は、日本体育大学の大学院に通っているので、以前とは違った形で時間を有効活用できています。
秋山:大学院でどのようなことを学んでいるんですか?
萩野:スポーツ人類学を学んでいます。言葉にするとすごく難しそうに聞こえるかもしれませんが、実際は決して難しいものではないんですよ。
五十嵐:僕もそういう分野にはとても興味があるんですが、荻野さんはなぜスポーツ人類学を専攻しようと考えたのでしょうか?
萩野:現役時代の終盤、僕は「なぜ自分は泳いでいるのか?」ということをずっと考えながら水泳をしていました。「なぜあなたはそのスポーツに取り組んでいるのか?」という問いに対しては、人それぞれに答えがあるはずです。その答えの数々を知りたいと思ったことが、スポーツ人類学を学ぶきっかけになりました。僕が取り組んでいるのはライフヒストリーという研究。インタビュー調査などを通じ、文字どおりその人の人生のなかにおけるスポーツのあり方を理解、把握していこうという分野です。
五十嵐:萩野さんは華々しい成績を残してきたアスリートでありながら、当時は自分が泳いでいる理由がわからなかったということですか?
萩野:そうですね。歴史的な観点でいえば、かつての人類は狩猟採集生活を基本とし、もともとは魚をつかまえて食べるために泳いでいました。でも今の時代、そうする必要はありませんよね。つまり食べるために、生きていくために泳ぐ必要はないわけです。ただ水泳選手は、24時間365日をかけて泳ぐことを突き詰めています。その一方で、どれだけタイムを追い求めたとしても、泳ぎの速さで魚に勝てるわけがありません。それなのに、水泳選手は泳ぎ続けます。そのギャップを感じたときに、「なぜあなたは泳いでいるのか?」という問いに対する、さまざまな回答を知りたいと思うようになったんです。
あのシーンのトラウト選手のホームランを見たときは…五十嵐:アスリートのなかには、物事を深く考えるようなタイプが多いですよね。野球界では、イチローさんや大谷翔平選手もそのようなタイプだと思うんです。萩野さんも、例えば泳ぐ技術の一つひとつを深く突き詰めて考えるタイプだったのではないですか?
萩野:一つひとつのことをだいぶ深く考えてしまうタイプでした。深く深くもぐりに行って、もう戻ってこられなくなってしまうくらいでした(笑)。個人的には、そのような状態が楽しくて面白いから、どんどん沼の奥へと足を踏み入れていってしまうような感覚でした。
秋山:そういう自分も嫌いではなかったのではないですか?
萩野:全然嫌いではありませんでしたね。僕はスポーツが大好きで、普段からさまざまな競技を見るんですが、周囲の人から「オタクだよね」と言われてしまうくらい各競技にのめり込んでしまうタイプで。メジャーリーグもよく見るんですよ。
五十嵐:萩野さんのようなタイプは、一般の方とは見ているポイントが違うような気がします。例えば野球の場合、投球のスピード、打球の飛距離などはパッと見てそのすごさがわかりやすいですよね。でも、萩野選手が注目するポイントはそういうところではないんじゃないですか?
萩野:確かにそうかもしれません。今年の4月下旬、大谷選手が所属するロサンゼルス・エンゼルスの試合で、3者連続ホームランがありましたよね。テーラー・ウォード選手、マイク・トラウト選手、そして大谷選手。あのシーンのトラウト選手のホームランを見たときは、「あのバットの振り方で、なぜセンターのあんなに深いところにまでボールが飛ばせるんだろう?」と考えながら、だんだん楽しくなっていつの間にかニヤニヤしていました(笑)。「ちょっとミスしたかな?」というスイングだったのに、それでもあそこまで持っていく。そういうシーンを見るのは本当に楽しいですよね。
秋山:2年前まで競泳の選手だったとは思えないような見方とコメントです(笑)。
五十嵐:もともと自分もアスリートだし、動き方や体の使い方といった部分を追求してきたからこそ、そういうところに目がいくのかもしれませんね。
自分の意志とは関係ないところで始まった水泳人生五十嵐:ところで、「なぜ自分は泳いでいるのか?」という問いに対する答えは見つかったんですか?
萩野:今後、さらに研究を進めていくことで変わっていく可能性もあると思いますが、現時点での答えは何となくつかめているつもりです。僕は生後6カ月のときに、母に連れられてベビースイミングを始めました。生後6カ月の子どもが、「僕はスイミングがやりたい」なんて言うわけがありませんから、自分の意志とは関係のないところで萩野公介の水泳人生は始まったわけです。その後、気がついたときにはバタフライが泳げるようになっていたし、背泳ぎも平泳ぎもクロールもできるようになっていた。だから、僕のなかには「泳ぎたい」と言った記憶もないし、「泳げなかった」という経験もないんです。
五十嵐:人はそれを「天才」と言うんですよ(笑)。
萩野:いやいや(笑)。その後、僕はいろいろな経験を積んでいきます。中学1年生のとき、初めての海外遠征でオーストラリアに行きました。初めて海外で大会に出場し、現地で口に合わない食事をしたこともありました。リオ五輪のときには、地球の裏側まで移動することの大変さを感じました。こういった水泳を通して得た移動や食の経験、レースの思い出、恩師や仲間の存在など、大きなことから些細なことまで、すべての出来事を味わえたことが、萩野公介が泳いできた意味そのものなのではないかと、今は思っています。
五十嵐:なるほど。
萩野:東京五輪の最後のレースの前、「もしかしたら、これが自分にとって最後のレースになるかもしれない」と考えていたら、今までの経験や体験が走馬灯のように脳裏に浮かんだんです。その瞬間に、「ああ、これらの一つひとつが、自分が泳いできた意味につながるんだ」と思って。とはいえ、これは現時点での僕の答えであって、AさんにはAさんの答えが、BさんにはBさんの答えがあるはずです。いろいろな方の答えを見聞きしながら、死ぬ間際まで「なぜ自分は泳いできたのか?」ということについて考えていきたいと思っています。
五十嵐:萩野さんの話を聞きながら自分の野球人生を振り返ると、どこか浅かに思えてしまいます(笑)。単純に野球が好きだったし、マウンドでの興奮、バッターを抑えたときの歓喜、さらにはプロとして得られる収入。そういうところが僕を満たしてくれていたのだと思うし、そこまで野球をやる意味を考えたことはありませんでしたから。ただ、見渡してみれば、トップアスリートのなかにはそういう考えの持ち主も多いような気がします。大谷選手の言動を見ても、自分の活躍のため、お金を稼ぐためだけに野球をやっているようにはまったく見えませんからね。将来的に一流アスリートを育てていくうえでは、そういう感覚的な部分の指導も重要なポイントになってくるのかもしれません。
萩野:WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)優勝後のインタビューで、大谷選手は「感謝」という言葉を何度も口にしていました。それを見聞きしながら、改めてすごい選手だなと思って。僕と彼は同級生でもあり友人でもあるので、お互いに連絡を取ることもあるんですが、本当に尊敬できる人物の一人です。彼と同じように、僕の同年代にはスポーツの世界でトップに上り詰めている選手が多いので、彼らの活躍を見ていつも刺激をもらっていました。
競泳界の現状と世界記録に迫るあの注目選手秋山:萩野さんはこのあと、仕事でアメリカのアリゾナ州に行かれるそうですね?
萩野:今、アリゾナ州立大学に、フランス人のレオン・マルシャンという競泳選手がいます。僕が得意としていた400m個人メドレーの選手であり、その彼が世界記録目前というところまで上り詰めてきているんです。現在はアメリカのマイケル・フェルプス選手が持つ4分3秒84が世界記録なんですが、今年7月に福岡で開催される世界水泳で、マルシャン選手がその記録を塗り替えるかもしれないと、大きな期待が高まっています。ちなみに、マルシャン選手を教えているコーチは、長年フェルプス選手のコーチを務めてきたボブ・ボウマンという方なんです。
五十嵐:そのコーチがすごいのかもしれませんね。ボウマンコーチはアメリカの方なんですか?
萩野:アメリカ人です。東京五輪の400m個人メドレーで、マルシャン選手は決勝まで残ったものの、メダルを獲得することはできませんでした。ただ、その決勝のレースを見たボウマンコーチは、マルシャン選手の泳ぎに何か感じるものがあったのでしょう。レース後にボウマンコーチは、「私の指導を受けるなら今だぞ。今、私のところに来るなら、君はもっと伸びていく」と、マルシャン選手に声をかけたといいます。その後、マルシャン選手はボウマンコーチのいるアリゾナ州立大学に入学して、昨年の世界選手権で大ブレイクを果たし、世界記録まであと0秒44というところまで迫る記録を出したんです。
秋山:マルシャン選手のすごさはどのようなところにあるんですか?
萩野:彼のすごいところはいくつもありますが、わかりやすいところではターンをしたあとの泳ぎが挙げられます。ターンしたあと、選手はアンダーウォーターというもぐる動作をし、潜水したままドルフィンキックやバサロキックで進んでいきます。ターン後にもぐりながら泳げる距離は15mまでと決められていますが、レース後半に15mをもぐり続けることは本当に苦しいんです。15mもぐるということは、7秒間から8秒間は息継ぎなしという状態ですからね。特に400m個人メドレーはものすごくタフな種目で、350mを泳ぎ、最後の50mに向かうターンをしたあとに潜水するというのは、とてつもなく苦しいことなんです。でも、マルシャン選手にはそれができる強さがある。さらに、最後の最後まで水中で力強いキックをすることができる。このあたりが彼のストロングポイントだと思います。
五十嵐:ものすごい肺活量とパワーの持ち主なんですね。
萩野:2024年にはパリ五輪が行われます。先ほども言ったとおり、マルシャン選手はフランス人選手。「自国開催の五輪で、フランスの若きスーパースターは何個メダルを獲得するのか?」と、今から注目が高まっています。
ボブ・ボウマンと平井伯昌。偉大なコーチたちに通じる共有点五十嵐:マルシャン選手のポテンシャルを見抜いたボウマンコーチもすごいですよね。どういったところが優れた指導者なんですか?
萩野:少し話が逸れますが、大学生であるマルシャン選手を筆頭に、近年の競泳界では若くて実力のある選手が台頭してきています。例えば女子では、今年16歳になるカナダのサマー・マッキントッシュ選手、男子では今年19歳になるルーマニアのダビド・ポポビッチ選手。2人とも10代の選手ながら、すでに世界記録を出しているんです。このような若い選手たちに共通しているのが、物事に対する考え方がとてもしっかりしているという点。「楽しい!」「わーい!」「やったー!」という感じではなく、一つひとつのことに真摯に向き合い、きちんと考えながら取り組むことができています。
五十嵐:確かに、最近のトッププレーヤーはそういう傾向がありますよね。
萩野:ボウマンコーチは、もちろん泳ぎのテクニックを教えるのも上手な方です。ただ、僕自身が大学時代から指導を受けた平井伯昌先生もそうなんですが、競泳の指導者として選手を育てつつも、選手の人間性を育てているんですよね。賢く、自ら考える力を持った選手が増えてきているなか、ボウマンコーチはときにウィリアム・シェイクスピアの名言をはじめ、生きていくうえでの格言のようなメッセージを選手に授けているといいます。競泳のレースに臨む選手を育成するにあたり、選手とはいえあくまでも泳ぐのは人間なのだから、人として核となる部分を指導していくという部分に重きを置いている。平井先生も同様で、競技の面だけでなく人間性を育もうという指導をしているから、次から次へと優秀な選手が輩出できているのだろうと思います。
初めは理解ができなかった恩師からの言葉五十嵐:萩野さんが平井コーチからかけられた言葉で、特に印象に残っているものはありますか?
萩野:平井先生から言われ続けたことの一つに、「水泳のことを水泳で解決しようとするな」という言葉があります。
秋山:すごく奥深い言葉であり、さまざまな受け止め方があるような気がします。萩野さん自身はどのような受け止め方をしたんですか?
萩野:最初はよく意味がわかりませんでした。「水泳がうまくいかないんだから、水泳をしながら解決するしかないだろう」と。でも、平井先生からはずっとその言葉を投げかけられ、本音では「いや、それは……」と思いながら練習を続けていたところ、水泳を水泳で解決しようとしていたら、いつしか限界がきたんです。その瞬間に、「ああ、これは平井先生が言っていたとおりだな」と実感しました。
五十嵐:というと?
萩野:「なぜタイムが伸びないのか?」「もっともっと練習しなければ」と思っていたとき、平井先生から「その考え方は違うぞ」と指摘されたことがあったんです。「水泳のことを水泳だけで解決しようとすると、いつか限界がくる。全体を俯瞰で捉え、『どのようなポイントがうまくいっていないから今の現象が起きているのか』と、広い視野で見て考えることが大事になってくる」と言われたんです。
五十嵐:萩野さんが言っていること、僕も何となくわかります。野球選手も、野球という競技にのめり込むのはいいことだと思うんですが、何かがうまくいかなくなったときに、野球のことばかりを考え、悩み、苦しんでしまうようなタイプは、その状態から抜け出せないんですよね。いい意味で野球と少し距離を置き、違う角度から野球を見るような姿勢がないと。でも僕は、そういう姿勢を監督やコーチから教わるような機会はなかったなぁ。
萩野:まさにそのような感覚です。例えば競泳の場合、「練習中から頑張ろう」「もっと自分を追い込もう」という姿勢も大事ですが、泳ぎに対して「一つひとつの動作が雑になっていないか?」「水をかき始める際の腕の角度はこれでいいか?」と、細部にまで気を配って泳ぐことが大切です。また、泳いでいる最中には呼吸動作が早まってしまうことがあります。その原因を「早く呼吸がしたいから」と捉える選手や指導者もいますが、実際は「速く泳がなければ」という焦りの気持ちが高まることによって、頭が水上に出るペースが早くなってしまうケースが多いんです。結果的に、頭の重心がズレることによりボディポジションもズレていき、うまく波に乗ることができない。こういうときに改善すべきは、呼吸の回数を気にするよりも、タイムを気にする自分のメンタルを落ち着かせることなんですよね。
五十嵐:何か明確な欠点があるときに、その部分だけをクローズアップするのではなく、広い視点で原因を探る必要があると。
萩野:そのようなことをずっと平井先生から教わってきました。初めのころは意味がつかめませんでしたが、言われ続けることで最終的にはそのとおりだなと。実績を残し、キャリアを積めば積むほど、年齢を重ねれば重ねるほど、平井先生から投げかけてもらった数々の言葉の重みを実感したことを今でもよく覚えています。
<了>
[PROFILE]
萩野公介(はぎの・こうすけ)
1994年8月15日生まれ、栃木県出身。生後6カ月から水泳を始める。小学校低学年のころから学童新記録を更新し、中学時代以降も各年代の新記録を樹立。17歳のときに初出場した2012年のロンドン五輪では、400m個人メドレーで銅メダルを獲得。2016年のリオデジャネイロ五輪では、400m個人メドレーで金メダル、200m個人メドレーで銀メダル、4×200mフリーリレーで銅メダルを獲得した。2021年の日本選手権では、3大会連続の五輪出場を手にし、2021年に開催された東京五輪終了後に現役引退を発表。現在は日本体育大学大学院でスポーツ人類学を学びつつ、競泳に関する解説を務める。
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JFN33局ネットラジオ番組「FUTURES」
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