ガンバ大阪の練習生として選手生活をスタートさせ、プロ入り後は中盤の主軸として2000年代のクラブの黄金時代を支えた橋本英郎。名門ジュニアユースの最下層から日本代表まで上り詰めた稀有な存在だ。そんな遅咲きとも評される橋本の能力を早くから見出した一人が、元ガンバ大阪の伝説のスカウトマンでありアカデミー本部長なども歴任した二宮博だ。本稿では、今年7月に刊行された二宮の著書『一流の共通点 スカウトマンの私が見てきた成功を呼ぶ人の10の人間力』に収録された二宮博と橋本英郎の対談の抜粋を通して、プロとして適用し、活躍する選手の条件をひも解く。
(インタビュー=二宮博、写真=アフロ)
「イナよりもすごい選手がいたんです。そういうスタート」橋本:ガンバ大阪のジュニアユースに入ったのが中学1年生。そのときに最大の挫折をしたんですよ。レベルが足りない。今までの考え方ではダメだと現実を突きつけられた。そこから、相手の言うことを聞くとか、上手な選手のプレーを盗むとか、まねをするとかを心がけました。中学2年生のときの監督には「プロは教えてもらうものではない」と言われました。中学3年生のときの指導者は現在、履正社高校で指導する平野直樹監督で、そのころ僕はFWでしたが平野さんもFW出身で、FWの考え方を教えてもらい、新しい発想を得られました。その時々で恩師に出会い、成長させてもらいました。
二宮:自分を知ることは、プロで活躍するには不可欠。ハッシーはいろんな指導者に巡り合い、その教えをきちんと理解し、納得し、勝利のために何を求められているか、何を期待されているのかがわかっていた。加えて、教えられる機会の少ない気配りや目配りができていたことが、長くプロとしてできた要因だと思います。中学1年生で挫折とのことですが、ガンバのアカデミー、なかでもジュニアユースはそうそうたるメンバーが集まってきます。びっくりするような選手と競争しなければならない。自信をもって入ってきたら、とてつもない選手がいるわけです。そのなかでもまれる経験がのちのち生きてきます。
橋本:いや、本当にレベルは高かったですよ。僕は大阪市選抜にも入ったことがなく、2回戦敗退レベルのチームでした。キャプテンでエースやからいけるやろと思ってガンバに入ったら、別次元の選手がいた。U─12日本代表のエースでキャプテンがいたんです。「なんで高校生がおるんや」と思ったら、同学年でした。そこにはイナ(稲本潤一)も隠れていた。そのイナよりもすごい選手がいたんですよ。そういうスタート。プロになるのは、こんなレベルじゃないと無理なんやと思い、何を甘いこと言っていたんやという気持ちになった。もうそこから「プロになる」なんて、口が裂けても言えないですよ。
自分が絶対に勘違いできない環境二宮:ハッシーはそういう強力な才能たちと一緒にやることで、対応力や適応力、コミュニケーション能力を磨いてきました。ハッシーの賢さが表れている。単純に対抗心を燃やすのではなく、うまく自分のプラスになるように彼らの能力を盗み、学ぶことでプロになった。
橋本:そのとおりです。衝撃を受ける相手って、みんないると思うんです。僕がラッキーだったのは、プロの基準がイングランドで無敗優勝するアーセナルに呼ばれたイナだったんです。22歳のときにW杯日韓大会で活躍する選手が中学1年生から一緒だったのは、普通のプロが基準じゃなかった。日本代表入りして海外に行く選手が基準だったんです。彼がいなくなったあとはヤット(遠藤保仁)で、また同学年。ヤット相手ならいけるんちゃうかと思いながら頑張ったんです。勝てなかったけど、彼は日本代表でもっとも試合に出る選手で、今度は彼が基準でした。彼と切磋琢磨していたら、勝手に日本代表のレベルに達していました。それは本当についている。ほかのチームで自分よりうまいと思う選手が代表クラスではなければ、そこに追いついて終わっていたかもしれません。高いレベルを求める選手が周りにいたから、僕はずっと上を見ながらやってこれた。自分が絶対に勘違いできない環境。自分よりいい選手がいる環境で、ずっとやってきたことが大きかったです。
「指導者受け」する選手であり「器用貧乏」。生き抜く方法は?二宮:当時のトップは代表級がそろっていた。でもハッシーの評価は高かった。言い方は悪いかもしれませんが、指導者受けしていました。
橋本:でも、昇格したころに当時の強化部長から「器用貧乏」と言われました。いろんなポジションができるけど、明確に1つのポジションができたり、何か一芸に秀でていたりするわけでもない。どうやって生き残るかという問題を抱え、コーチと話すなかで「ポジショニングというのはどうだ」という話になりました。足が速いとか、テクニックが優れているとか、ヘディングが強いとか、身体能力が高いとかじゃなく、目に見えにくいけれど、ポジショニングというのも一芸としてある、ということを教えてもらいました。
当時は柏レイソルでプレーしていたミョウさん(明神智和)を見習ってみたらと言われました。身体のサイズ的にも僕と一緒くらい。そこからポジショニングをすごく意識してプレーするようになりましたね。
あとは、ボランチのパートナーがヤットで、彼がチームの中心になっていくなかで、彼がやらないことを自分がやればいいんちゃうかと思った。それが守備的な部分でした。彼は攻撃的な部分が得意。逆に僕は守備のところで相手が嫌がるところ、そういうことを買って出ることで、チームのバランスが取れると思いました。僕はそこを、ミョウさんのポジショニングを基準に置いてプレーしていましたね。汗かき役だったり、ポリバレントだったり、その後、いろんな表現が出てきましたが、そういう役割を自分がすればいいと思うようになりました。
もともとは攻撃的な選手でしたが、守備の要素にフォーカスし、ボールを奪うところをトレーニングしていきました。それがはまった。「スキマ産業」を見つけ、うまくいったんです。
<了>
[PROFILE]
橋本英郎(はしもと・ひでお)
1979年5月21日生まれ、大阪府出身。ガンバ大阪のアカデミーを経て、1998年にトップ昇格。練習生からプロ契約を勝ち取り、不動のボランチとしてJ1初制覇、アジア制覇などガンバ大阪の黄金期を支えた。その後、2012年にヴィッセル神戸、2015年にセレッソ大阪、2016年にAC長野パルセイロ、2017年に東京ヴェルディ、2019年にFC今治に移籍してプレーし、2022年おこしやす京都ACに選手兼ヘッドコーチとして加入。現役選手としてプレーしながら、Jリーグ解説者、サッカースクール・チーム運営など幅広く活動。日本代表としては国際Aマッチ・15試合に出場。2023年1月に引退を発表。25年間の現役生活に終止符を打った。
[PROFILE]
二宮博(にのみや・ひろし)
1962年、愛媛県生まれ。中京大学卒業後、生まれ故郷で公立中学の保健体育教諭として10年間勤務。1994年からJリーグ、ガンバ大阪のスカウトとして多くの選手の発掘、獲得に携わった。その後は育成組織であるアカデミー本部長などを歴任。組織の充実などに努め、「育成のガンバ大阪」の礎を築いた。2021年、定年を前にガンバ大阪を退社し、自らがスカウトした元Jリーガー、嵜本晋輔氏が代表を務め、ブランド品の買取や販売事業を手掛けるバリュエンスホールディングス株式会社に入社。社長室シニアスペシャリストとしてスポーツ関連事業に携わるほか、大学や企業で講演活動などを行っている。神戸国際大学客員教授。