Infoseek 楽天

米国人弁護士が交代石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【あるBC級戦犯の遺書】#49

RKB毎日放送 2024年7月5日 19時8分

弁護人が飛躍的、非科学的、非常識な判決と評した、石垣島事件の判決。横浜裁判で言い渡された死刑判決の三分の一を占める異常な結果は、どうして導かれたのか。判決後、日本人の弁護人たちが連名で書いた、嘆願書の下書きが見つかったー。

◆弁護人4人連名の「嘆願書」

国立公文書館に収蔵されている石垣島事件のファイル。弁護士の手元に残っていた資料をそのまま綴じ込んだようなファイルには、検事側から証拠として出された書証のコピーや、弁護側から裁判に提出された書類の下書きとみられるもの、また、メモのようなものも入っている。

その中に海軍の用紙に書かれた「嘆願書」があった。法務省から移管された戦犯関係の文書で、公文書館で閲覧できるのはほとんどがコピーだ。この文書もそうで、修正が入っているのと、日付がないので、下書きだと思われる。1948年3月16日の判決後、湯川忠一、村田保定、金井重夫、尾畑義純、4人の日本人弁護人の名前が書かれている。宛名は、「連合軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥閣下」だ。

<嘆願書>(※分かりやすく平仮名にした部分があり)

私ども4人は、1948年3月16日横浜の軍事法廷において、判決を言い渡された第258号事件(いわゆる石垣島事件)の弁護人であります。 私どもは、同年11月26日付けを以て、閣下に対し第八軍法務部を経由して嘆願書を提出し、この事件の弁護が、アメリカ人顧問弁護人の更迭により、極めて不満足のうちに終了したことを理由として、再審につき御考慮下さるように御願い致しました。しかしその嘆願書中には事実を十分に記載することを省略致しましたので、ここに改めて事実を具体的に記載し、御参考に供したいと存じます。

◆熱意を持っていた主任顧問弁護人

<嘆願書>

この事件は初め、ジョセフ・ジー・ワイマン氏が主任顧問弁護人として選ばれ、1947年11月26日から裁判が始まりました。 同氏は約一ヶ月間の調査で、事件の真相、被告人の主張及び反証方法等につき十分、理解研究し、しかもこの事件につき、非常な熱意を持っており、被告人ら及び私どもから十分な信頼を受けて弁護に当たりました。ところが1948年1月8日休廷中に、被告人ら及び私どもの面前において、彼とイー・ダブルユー・ガスリー検事とが、かねてから懸案になっていた、被告人らの首に氏名標を掛けるという件につき言い争い、互に腕力を行使するという事件が起こりました。これが原因であったと思いますが、ジョセフ・ジー・ワイマン氏はその意志に反し、又、被告人ら及び私どもの意志に反し、当時の弁護団長バーロン・ケー・フィリップス少佐によりこの事件の担当を解かれ、同月12日より同人に代ってハロルド・キンゼル少佐が法廷に姿を現わすに至りました。

戦犯裁判に熱意を持ち、被告人たちからも信頼を得ていたワイマン氏が、ガスリー検事との取っ組み合いの喧嘩で、交代させられてしまうという悲劇が、裁判が佳境に入ってくる時期に起きていた。

◆ワイマン氏の交代で弁護に暗雲

<嘆願書>

私どもはこの暴行事件を目撃しており、非は検事にあると考えておりましたのに、検事は罷免させられず、弁護人のみが罷免させられるのは、了解ができませんでしたし、公判が重要段階に入っている時、主任顧問弁護人の交代は、被告らに極めて不利益であると考えましたので、全被告人らとも協議の上、共同して嘆願書を作成し、同日弁護団長を訪れ、これを提出しジョセフ・ジー・ワイマン氏の罷免取消を願いましたが、聞き入れられませんでした。

その後の審理における弁護は、ハロルド・キンゼル少佐が、この事件の内容を知らぬのと、熱意を持たない為、主として補助顧問弁護人であったルース・ブライフィールド嬢により、あたかも彼女が主任顧問弁護人であるかのように行われました。しかし、彼女は第四等級の弁護人で、主任顧問弁護人になる資格を持ってはおらず、その能力が貧弱であることは毎日の法廷において次第に明らかとなり、被告人ら及び私どもとして、痛く失望せしめるに至りました。

◆力不足のブライフィールド嬢の弁護

<嘆願書>

検事側証人に対する反対訊問の拙さは、私共を憤慨させるものでした。殊に同月26日弁護側の反証段階に入った日、彼女の弁護側証人に対する訊問の拙劣さは、私どもをして我慢できぬ不満を感ぜしめました。私どもこのまま審理が進行することの危険を痛感し、全被告人の同意を得て、同日再び、弁護団長を訪れ、被告人ら及び私どもの不満を述べ、ジョセフ・ジー・ワイマン氏の復帰を求めましたが、聞き入れられず、それならば同氏は法廷外でこの事件の弁護に協力することを許されたいと願いましたが、これも許容されませんでした。

同年2月2日法廷に姿を見せなかったハロルド・キンゼル少佐は以後、同月20日迄、病気の為欠席するに至り、同月11日よりウィリアム・マルチン少佐が、法廷に列席するに至りましたが、彼は中途から事件に関係されたので、弁護に力を発揮する機会がありませんでした。

◆証言台にも立てず、困惑した被告たち

主任弁護人になれる正式な資格も持たぬまま、主役として弁護活動したブライフィールド嬢だったが、日本人の弁護人4人は、その拙さと意見を聞かない態度に不満を抱いた。

<嘆願書>

同日24日、ハロルド・キンゼル少佐が再び法廷に現われるに至り、その後、三人が顧問弁護人として在廷しましたが、終始主役を勤めたのは、ルース・ブライフィールド嬢でありました。

しかも、私どもの意見は用いられぬことが度々であり、被告人の中には証言台に立ちたいと主張する者があるに拘わらず、これを許容せず、もしそれを強く主張するならば顧問弁護人を辞すると言って、被告人らを困惑させ、陳述の機会を奪いました。

◆アメリカ人弁護人への不満は最後まで

<嘆願書>

このようにして、ジョセフ・ジー・ワイマン氏更迭後のアメリカ人顧問弁護人に対する、私どもの不満は最後まで続きました。3月16日に下された、あの驚くべき判決は、彼らの無力の何よりの証明であり、被告人ら及び私どもが最後まで彼らに不満を抱いていた事が決して間違っていなかったことを証明するものと思います。

しかも、ジョセフ・ジー・ワイマン氏の復帰を最も強く主張した湯川忠一、及びルース・ブライフィールド嬢の無力に最も明白に不満を表明した村田保定は、この判決後、横浜軍事法廷における他の戦犯事件の弁護を担当させないと弁護団長より通達せられました。

◆弁護人に恵まれぬ不運、不利益を被った被告たち

この嘆願書をみると、日本人の弁護人が満足のいく弁護活動が出来たとは到底思えない。しかも、不満を表明した弁護士二人は、石垣島事件の裁判後、ほかの戦犯裁判を担当することすら出来なかった。

<嘆願書>

以上の記載により、この事件がアメリカ人顧問弁護人の交代及び後継者の人選において、いかに不運であったか、そして被告人らの意思が公正に代表せられず、その結果、如何に彼らが不利益を受けるに至ったかをご了解下され、裁判をやり直して、公正妥当な判決が、改めて下される機会を与えられるよう重ねて懇願する次第であります。

「不運」という言葉では片付けられない、弁護人の人選。次々に言い渡される死刑の判決にブライフィールド嬢は遂に泣き伏したという。そして二回の再審でも7人の死刑は覆ることはなかったー。

(エピソード50に続く)

*本エピソードは第49話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#49 米国人弁護士が交代石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

この記事の関連ニュース