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捕虜虐待の根底にあった「捕虜となることは大きな恥辱」嘆願書で強調した日本の”常識”~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【あるBC級戦犯の遺書】#50

RKB毎日放送 2024年7月12日 22時0分

国立公文書館に法務省から移管された戦犯関係の資料。石垣島事件のファイルには、41人死刑判決の後に、マッカーサーに宛てられた複数の嘆願書があった。裁判を総括するかのようにまとめられた嘆願書には、「捕虜となることは大きな恥辱」など、当時の日本軍の常識が述べられていたー。

◆元軍人個人の見解としての「嘆願書」

嘆願書は6枚に渡り、手書きではなく活字で打たれている。1948年12月に提出するつもりで作られた下書きで、嘆願書を提出した人の名前は入っていないが、手書きで「弁護人及び被告の友人に私的にお渡しし、その人の名の下に提出された」というようなメモが記されている。メモの字が小さく癖もあるため良く読めない状況だが、かなり階級が上の元軍人が個人の見解として書いたようだ。

<嘆願書>(※現代風に読みやすく書き換えた箇所あり)
1948年3月16日、横浜の軍事法廷において判決が下された石垣島事件の被告人らのために、ここに閣下に対し私見のいくつかを表明し、被告人らの責任につき、寛大にして公正なる最終的決定が与えられるよう、御配慮賜わらんことを嘆願することをお許しください

◆多くの人達の非常な関心の的

<嘆願書>
本事件の被告人45名中41名は絞首刑の判決を受けたのでありまして、その41名の中には、上は捕虜の処分を決定命令した海軍大佐の司令から、下は命令により銃剣刺殺に参加することを強制させられた水兵に至るまでを含み、更にその際には、この不法行為に何ら関与しなかった数名も含まれていると言われております

その判決の厳しさは、たしかに他に例を見ないものであり、その様な判決が下されるに至った原因に関する様々な見解と共に、今やこの事件の結末は、多くの人達の非常な関心の的となっております

私は特に (イ)米軍軍事裁判の信用と権威の為に (ロ)日本におけるデモクラシーの発展の為に この事件の終局につき、深甚なる考慮がはらわれることを切望する次第であります

◆日本では「捕虜になるより自殺」

<嘆願書> 日本においては、軍人が捕虜となる事は大なる恥辱であると考えられ、捕虜になるよりはむしろ自殺する事が、軍人の道に合するものと考えられておりました この考えは封建時代から引き継がれ、今回の戦争中までも清算されていなかったものであります

敵国の捕虜になった日本軍人の家族が、近隣者より迫害された事実が近年まであったことによってもそれは明白であります 従って敵軍の所属者が日本の捕虜になった場合にも、その人に対する考え方が欧米人の考え方とは甚だしく異なり、憐憫よりも軽蔑の感情が強かったと思われます

◆捕虜に対する日本人の国民感情が根本原因

<嘆願書> 1902年のハーグの陸戦法規慣例に関する条約に、日本も加入はしていても、その捕虜の取扱いに関する部分は、感情的に国民の支持を受けていなかったのが実情であり、今回の戦争において、捕虜に対する多くの犯行が発生した事実も、その根本原因は前記の国民感情にあったのでありまして、これに関与した一部の人達にのみ、重い責任を負わせる事は正しくないと考えられます

◆捕虜の扱い啓蒙もなく国民は無知

<嘆願書> 次に日本において平戦時を通じ捕虜の取扱いに関する国民教育が極めて不十分であったことが指摘されねばなりません この点については大部分の国民は無知であったというのが実情であります 開戦後、日本の政府は関係各国に対し、日本の収容した捕虜に対しては、1929年のジュネーブ条約の規定を準用する旨、回答はしましたが、国民に対してはこの点につき、何らの啓蒙が行われませんでした

◆軍隊も無知のまま放任

<嘆願書> 陸海軍においても同様でありまして、下士官兵はもちろん、士官もこの点につき認識を持たぬ者が大部分でありました 正規の海軍士官を養成する海軍兵学校における、近年の国際法の授業時間がただの数時間であり、しかも捕虜に対する取扱いについては何らの講義もなされなかったという事実が、これらのなりゆきを最も雄弁に説明するものと思います 従って彼らの犯行は無知に由来するものともいい得るのであり、この種の事件の主たる責任は当該事件の関係者自身よりも、むしろ彼らを無知のまま放任した、政府の主脳者が負うべきものであると考えるのが、正しいと思うのであります

捕虜の扱いについて、ジュネーブ条約を準用していても、それを認識するための教育も啓蒙もしていなかった日本。米軍機が墜落した場合に、生き残った搭乗員らが地元の住民たちに殺害されたケースも多々あった。国際法を知ることもなく国民の中で定着していた「捕虜になるのは恥辱」という日本の常識は、世界においては非常識だったー。
(エピソード51に続く)

*本エピソードは第50話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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