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絶対服従「上官の命令は天皇の命令」 命令を受けるものは単なる道具だった~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#51

RKB毎日放送 2024年7月19日 22時16分

国立公文書館に所蔵される石垣島事件のファイル。元軍人の見解として書かれた嘆願書には、当時の日本軍の常識が書かれていた。死刑を宣告された41人のうち、ほとんどは命令を受けた実行者だった。「上官の命令は天皇の命令」。命令を受けた者は、意志を持たない「単なる道具」の状態だったという。米軍はその常識に納得できたのかー。

◆石垣島事件に対する日本とアメリカの温度差

横浜裁判で最も多い被告数であった石垣島事件。米軍機の搭乗員3人の処刑に対し、46人が被告とされたが、初公判の日に毎日新聞が記事を掲載したとはいえ、いわゆる「ベタ記事」で、日本人の注目度はそう高くはなかった。

「九大生体解剖事件」のように、医師が生体実験をしたというショッキングな要素や女性の被告がいる事件と比べれば、人数は多いとはいえ軍隊にいた人ばかりなので、トピックスになり得なかったのかもしれない。また、3人目の捕虜を縛って生きながら刺突訓練の的にしたという殺害方法が日本の軍隊では珍しくなかったのか、特に残酷だという認識ではなかったようだ。

しかし、米軍の認識は違っている。1947年11月26日の初公判の後、12月3日に被告人席では足りずに傍聴席までを埋める被告たちの姿を、全員が写るように4枚の写真に収め、それをアメリカの国立公文書館に収蔵したことを見れば、横浜裁判の中でも重要な裁判という位置付けだったと思われる。一人ずつ判決を宣告される写真は30数人分も残されている。

◆41人死刑は衝撃

さすがに、1948年3月16日の41人死刑判決は新聞で大きく扱われた。大佐から二等兵までことごとく絞首刑の判決が出て世間が驚き、関係者の間で嘆願書を出そうという動きが活発化したようだ。その中の1通が1948年12月に提出するつもりで書かれた元軍人の嘆願書だ。

三人目の捕虜を銃剣で突いたとして死刑の宣告を受けた兵の中には、まだ10代の者もいて、「命令の実行者」を罪に問うのは酷であるという主旨なのだろう。命令についての「日本の常識」が書かれている。

◆上官の命令は天皇の命令

<嘆願書>(※現代風に読みやすく書き換えた箇所あり)

日本の軍人は「陸海軍は天皇の陸海軍であり、上官の命令は天皇の命令と心得よ」と教えられてきました 上官の命令に対する絶対服従は、軍紀の基本として、軍人の第二の天性でなければならぬとまで強調されて来ました 従って一旦上官から命令が発せられた時は、実行の困難を訴えることはもちろん、その当否を議することも禁止されていたのであります これは他面、指揮官に極めて重い責任を負わせたものであり、部下としてはそれが士官であると下士官兵であるとを問わず、一旦発せられた命令に対してなし得ることはただ、これに従うだけでありました 部下としては上官が不法の命令を発するというようなことは夢想すらしなかったのであります

◆絶対服従は五・一五事件の影響

<嘆願書> なお、日本海軍が服従の絶対性を特に強く要請するに至った理由としては、次のことが考えられます (イ)海軍の規律は軍艦による戦闘を中心として、規定されており、軍艦を単位とする戦闘には、乗員の意思は常に急速に且つ強固に統一されなければならない為、指揮官の命令の構成が極度に重んぜられねばならぬとされました (ロ)1933年5月15日、総理大臣犬養毅を殺害した事件に海軍士官が参加したことがあって以来、海軍では邸内の統制を強化する為、軍人の政治不関与と共に士官の命令に対する絶対服従を教育上強調するに至りました

◆命令を受ける者は単なる道具

<嘆願書> その様な理由により強調されて来た、命令に対する服従の要求は、開戦後、更に強化されるに至りました それは1942年に海軍刑法が改正され、上官の命令に反抗し、又は服従しない者に対する刑が加重されたことによっても明らかであります このようにして受令者の人格は無視され、それは発令者の単なる道具のような状態になっていたと言うことができるのでありまして、不法命令に基づいて犯行を敢えてした受令者の責任は、日本の軍人に関する限り軽微なものと見なければならないと思うのであります

BC級戦犯を扱った横浜裁判で罪に問われたのは、国ではなく、「個人」だった。人格が無視され、「発令者の単なる道具」であったから「個人」の責任を軽くしてほしいという嘆願では、最終的に全員の命は救えなかったー。
(エピソード52に続く)

*本エピソードは第51話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

#49 米国人弁護士が交代 石垣島事件の裁判をめぐる不運な事情

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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