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「母と妹ら五人の無残な黒焦げの遺体 その時の気持ちは生涯忘れられない」娘が見つけた父の新聞投稿 95歳父が語らなかった壮絶な戦争体験

RKB毎日放送 2024年8月14日 18時15分

熊本市に住む会社員の山本真由美さん(62)は今年3月、95歳の父、茂樹さんを看取った。介護が必要になった父の部屋を片付けていた時に、父が自分の戦争体験を地元の新聞に投稿していたことを知った。家族5人が黒焦げの焼死。初めて知る父の体験は壮絶なものだった。戦争の体験をほとんど語らなかった父は、なぜたった一度だけ、新聞に投稿したのか。

箪笥の上の棚にあったファイル 新聞の切り抜き

1年前の2023年冬、当時94歳だった父の茂樹さんが、急に歩けなくなった。

真由美さんが父の新聞投稿を見つけたのは、本格的な自宅介護がスタートすることを覚悟して、大掛かりな部屋の掃除と片付けを2日がかりで行っていた時だった。

山本真由美さん(62)
「1人で歩くことがおぼつかなくなった父が暮らしやすいように家具を動かしたり、引き出しの中の書類も整理しました。ふと箪笥の上の棚にあるファイルをめくると、地元新聞の切り抜きが貼ってあるのを見つけたんです。そこで初めて、父が戦争の体験談を新聞に投稿し、掲載されていたことを知りました」

黒焦げの遺体 新聞に掲載された父の投稿

山本茂樹さんの投稿が地元紙に掲載されたのは、1991年2月19日。

前年の8月にイラクがクウェートに侵攻したのをきっかけにアメリカ主導の多国籍軍とイラクとの間で湾岸戦争が勃発、イラクへの空爆で市民の犠牲も増える中、日本は多国籍軍に資金協力を重ねていた。

当時62歳だった茂樹さんが書いた投稿。そこには、真由美さんが聞いたことのない壮絶な体験が綴られていた。

被爆で焼死した家族を思う 山本茂樹(62)無職 ”防空壕にミサイル直撃”黒く焦げた女性と子供ばかり・・・の記事を読んで、四十数年前の悲惨な出来事が思い出され、新たな悲しみと憤りを感じた。 終戦四日前の昭和二十年八月十一日、久留米の市街地が米国の空爆で破壊、焼失した。そして多くの人が死傷した。 当時、父は会社、小生は県外で留守。残った母と幼い弟、妹たちは少し離れた防空壕に避難した。しかし爆撃で防空壕の出入り口がふさがれ、壕から出られずに焼死した。 焼け跡を父と二人で家族の行方を探したが、十日目に近所の人の知らせでその防空壕がわかり、二歳になる弟をおんぶし、折り重なった姿の母と妹ら五人の無残な黒焦げの遺体が見つかった。その時の気持ちは生涯忘れられない。 ”一億玉砕”と、一人の独裁者と一部の軍部におどらされ、無謀な戦争を続け敗戦となったが、一番被害を受け犠牲を被ったのは弱い一般国民であった。 双方とも言い分はあるにしても、戦争は国、人を滅ぼし、文化、環境を破壊する暴力であることは否定できない。 平和国の日本として、九十億ドルの追加支援で苦労するよりも、戦争終結、和平への働きかけに力を傾注すべきではなかろうか。(熊本市)

16歳で母と弟妹を亡くした父

終戦の4日前、1945年8月11日の久留米空襲では、米軍爆撃機の編隊が2度、福岡県久留米市上空に飛来し大量の焼夷弾を投下した。焼失した住宅は4506軒、214人の市民が犠牲となった。この空襲で母と弟妹を亡くした茂樹さんは、当時16歳だった。

茂樹さんは、久留米市にある月星化成(現・ムーンスター)で靴を製造する仕事に就いていた。台湾に二度、技術指導に行ったこともある。

熊本工場新設に伴って住まいを熊本市に移し、60歳の定年まで働いた。

真由美さんは、20代の頃に両親と久留米までお墓参りに行ったことがある。その時、茂樹さんが墓碑を指して、「家族はみんな空襲で亡くなった。ここに名前があるだろう」とポツリとつぶやいたことは覚えている。しかし、真由美さんも母・直子さんもそのことについて詳しく聞くことはしなかったという。

山本真由美さん(62)
「墓碑に刻まれた弟妹の享年には、1歳、2歳の文字もありました。母も私も、詳しく聞き返すことはしませんでしたが、母が『じゃあお父さんは、みんなの分まで長生きしないとね』と言うと、父は『そうだな』と嬉しそうに答えました。大人になって感じることですが、母は、昭和20年の終戦時は10歳。父は16歳だったので、当時の記憶が全く違っていたのだと思います」

戦争体験 家族にも話さない父だった

山本真由美さん(62)
「毎年、終戦記念日が近づくと、新聞でもテレビでも終戦特集が報道されますが、父は自分の体験を一切話すことはありませんでした。まだ私が幼かった頃に、父が飲んだ勢いで『久留米の空襲の時に、家族を探すために小倉から久留米まで歩いたんだ。すごくきつかったなー』と言ったのをおぼえているくらいです。今思えば、どんな思いで100キロ以上も歩いたんでしょうか。1962年生まれで高度経済成長期に育った私は、戦争については教科書で表面的にしか学んでいないので、遠い昔の終わったことだと認識していました」

”昭和の頑固おやじ”が秘めた思い

真由美さんによると、茂樹さんは「昭和の頑固おやじ」の典型。40歳くらいまでは父を煙たく感じていたという。

家ではあまりしゃべらないし、小言も多かったので、避けていたところもあった。

自分自身も仕事に没頭していたので、父の人生について考えることも聞くこともしなかった。

山本真由美さん(62)
「父は、普通の暮らしをしていた家族が戦争の犠牲になったことを『国に殺された』と感じていたのではないかと思います。家族のほとんどを一度に失った父の怒りや無念さは言葉にはならなかったのでしょう。だから母や私たち娘にもそのことは伝えられずに、それでも自分の気持ちの整理をつけるために、不戦の国、日本を続けるように願いを込めて、新聞に投稿したのではないでしょうか。私は、この短い投稿の根底にある父の怒り、悲しみを受け継いで、日本の平和を守ること、戦争をしない気持ちを持ち続けなければならないと感じています」

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