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証言台の特攻隊長「復讐心ではない 命令で斬ったのだ」~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#56

RKB毎日放送 2024年8月23日 11時0分

グラマン機に搭乗していた米兵3人が殺害された石垣島事件。BC級戦犯に問われた特攻隊長、幕田稔大尉は、1948年1月、横浜軍事法廷の証言台に立った。石垣島警備隊の井上乙彦司令から最初に米兵を斬首するよう命じられた幕田大尉は、午後10時過ぎに処刑の現場に到着した。軍事法廷では、検事から現場での様子を細かく質問され、幕田大尉は事実を明確に述べたー。

◆誰を処刑するのかは知らなかった

外務省の外交史料館が所蔵している、「本邦戦犯裁判関係雑件 横浜軍事裁判関係 『公判概要』綴(石垣島の部)」には、幕田大尉が1948年1月27日(火)から5日間に渡って証言台に立って述べた要旨が記録されている。3日目の尋問では、具体的な処刑時の状況が聞かれていた。幕田が最初に斬った米兵は、パイロットのティボ中尉だった。

なお、公開されているこの文書は名前がすべて黒塗りで消してある。別に入手した証人尋問などの裁判スケジュールと照らし合わせて、幕田大尉の証言を特定しているが、判明していない黒塗りの名前は○○で表記する。

<公判概要 1948年1月29日(木)> (検事の反対尋問続行 幕田の答弁要旨) 自分が処刑場に到着したのは午後10時過ぎで、到着後10分か15分で処刑は終わった。第一の処刑者として現場では何も命ぜられぬ。司令からあらかじめ第一の斬首を命ぜられていた。 どの俘虜が一番はじめになるのかは知らなかった。順序が如何にして決められたかは知らぬ。一番初めに処刑される俘虜が士官であることは、司令から命令を受けた時は知らなかった。

◆石垣島は毎日空襲 交通途絶で食糧不足

(検事の反対尋問 幕田の答弁要旨) 下士官兵数名が一人を穴の側へ連れて来た。誰が連行を命じたか知らぬ。現場で指揮していた者はなかったと思う。自分は指揮権を持たなかった。但し実際指揮していたのは、○○であった。 石垣島は当時、毎日空襲を受けていた。空襲により○○部隊では、それ程、戦死者は出なかったと思う。軍需品の被害は、自分は○○部隊の事しか知らぬが、防空壕に入れていた為、大した被害はなかった。 自分の隊も本部の隊も復讐心は持たなかったと思う。○○少佐、○○大尉か、空襲で戦死したことは聞いた。囚人等の名は聞いていたが、話したことはなかった。食糧は大変欠乏していたが、それは石垣島に陸海軍が相当数いて、島の産物では賄えずに内地台湾との交通が途絶したためである。

◆処刑するとき「復讐心は持たなかった」

(検事の反対尋問 幕田の答弁要旨) 自分は斬首する時、復讐心は持たなかった。命令により斬ったのだ。自分により斬られた人がティボ中尉か否かは分からず、上手に切れたのか否か考えてもみなかった。斬首後、傍観者が「よく切った」など言うのを、聞いた記憶はない。 ただ、1週間くらい後で、用で本部に行った時、司令にほめられたが、自分としては上手とも下手とも思っていなかった。

◆「斬りたい」を米軍調査官が強制

米軍機の搭乗員が行っていた無差別爆撃は国際法違反であり、軍律会議にかけて処刑を執行するのは正当な行為だと日本側は主張していた。しかし、石垣島事件では軍律会議を経ずに処刑をしている。米軍がいつ石垣島に上陸するかという緊迫した状況下での判断だったと井上司令が述べている。

処刑前日の空襲で、二人目の米兵を斬首した田口少尉の小隊から3人の死者が出ていたので、その仇討ちという筋書きをダイヤー調査官が作って、それに沿った調書をそれぞれの被告から録っていた。

(検事の反対尋問 幕田の答弁要旨) 検事側提出第18号証には、○○が士官室にいたことは覚えているが、軍律会議に送る話があったか否か覚えぬ。司令に対し、「斬りたい」と言ったという点はダイヤー調査官が強制したもので、真実ではない。司令の言った質問を命令として受け取ったと言う点も同様である。 検事側提出第18号証を署名した時は、○○は同席しない。ばらばらになった紙を相当数、山田通訳が持って来て、署名せよと言ったので、一枚一枚署名した。

◆命令されたので従ったまで

(検事の反対尋問 幕田の答弁要旨) その調査の時には井上乙彦司令と対質させられ、井上司令も命令したと言ったのに、「そうではないだろう、質問しただけだろう」と、井上司令の肩をむしろ好意的にダイヤー調査官がゆすり、司令の答えも曖昧になり、ダイヤー調査官は私に、司令の質問を私が進んで引き受けたものだと強制するので、私はいくら反対しても仕方がないと思い、強制されるまま従った。 弁護側提出第34号証に「命令を受けた」とはっきり書いてあるのは、全然強制されていないので、これは正しい。1年前のダイヤー氏の質問をはっきり覚えているのは、一日中命令か質問かを強要された為である。検事側提出第18号証に「のがれられぬと思った」と書いてあるが、そのように言った覚えはない。「命令されたのでそれに従ったまでだ」と答えた。検事側の書証には自分に不利となる点は沢山ある。見れば指摘できる。

◆自分の陳述は一貫し変わっていない

幕田大尉は勤め先の北海道から連行され、GHQに接収されていた東京の明治ビル(現・明治生命館)で調べを受けている。

(検事の反対尋問 幕田の答弁要旨) 明治ビルでは初め「知らぬ」と言ったが、やがて本当のことを言わねばならぬと思い、司令の命令であったと自白した。明治ビルまで仙台北署の菅○刑事ほか一名に護送されて来たので、逮捕されたものと自分では思っていた。 検事側提出第18号証は調査終了後、大意を知らされたが、これをプリントした英文に署名させられる時には、翻訳して読み聞かされてはいない。自分は斬首したことは強制されたとは言えぬ。 ○○と○○が全責任を負うと言ったので、陳述が変わったのではない。自分の供述は初めから一貫して変わってはいない。

(弁護人の尋問に対する幕田の答弁) ○○から本部に行く時、軍刀を持って行ったのは、戦地では日本海軍では士官は外に出る時は軍刀を携行することになっていた。そして石垣島は戦地であった。

幕田は命令に従うのが当然の海軍で、命令通りに斬首を遂行し、それで個人の責任が問われることがあるとは、全く思っていなかった。

横浜軍事法廷で被告を裁いたのは、米軍人で構成される「委員会」だった。検事、弁護人に続き、幕田大尉に対して委員会からの質問が始まったー。
(エピソード57に続く)

*本エピソードは第56話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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