米軍機搭乗員3人が殺害された石垣島事件の戦犯裁判。1人目を斬首した特攻隊長、幕田稔大尉に対する証人尋問は5日間にわたって行われた。1948年1月29日、検事に続いて、判決を下す米軍の委員会からの尋問が行われた。「殺害した米兵のほかにも斬首したことはあるのか」。弁護人が質問に異議を唱える中、異議は却下され、幕田は答えたー。
◆「署名せよ」米軍調査に恐怖
米軍からの調べを受ける際には、手続き上「真実を述べる」という宣誓をしてから調書を録ることになる。それがあるかないかで証拠の信用性に関わってくるわけだが、幕田大尉は検事側提出の調書は「真実でない」と否定しているので、宣誓があったかどうかを委員会は質問している。
なお、外交史料館に所蔵されている、この公判記録は名前がすべて黒塗りになっている。判明していない名前は○○で記す。
<公判概要 1948年1月29日(木)> (委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 検事側提出の第17号証、第18号証は、調査の時も署名の時も宣誓はされていない。「署名せよ」と突き出され、調査の時の恐怖は続いていたし、署名せねばならぬものと思い、また署名にそれほど重要な意味があるとは思わず、何気なく署名した。署名を拒否したことはない。 (調べを受けた)明治ビルで虐待されたことは誰にも届けなかった。自分も軍人としてダイヤー調査官の憤慨する気持ちは分かり、無理もないと思ったから、真実でない口供書に署名したのは翻訳が大体のもので、特に間違っているとは思わぬし、調査の時の恐怖があったので仕方がないと思ったからだ。鉛筆で書いたものには、お前の言ったことが書いてあるから署名せよと言われ、プリントされたものにはばらばらのものを差し出され、色々な事を言われて署名を要求された。調査の時、真実を述べても聞かれなかったので、署名せねばならぬと思った。
昨年7月、巣鴨へ○○が口供書の雛形を持って来て、この通りに書けと言ったので見ると、「自発的に」と書いてあるので、「強制された」と抗議したが聞かず、私の書いたものを丸めて捨てた。それでまた口論し、結局、命令系統の点を除き、自発的に書いたということで○○も満足したので、やむなく署名した。
◆事件までの2ヶ月は毎日6回の空襲
石垣島事件が起きたのは、1945年4月15日。沖縄戦の最中だ。当時の石垣島の状況を聞かれている。
(委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 特攻隊長の期間は、本事件までは約半年間だった。昭和20年2月半頃から本事件の日まで、毎日午前・午後、各三回ずつの空襲が続いた。特に私の部隊にひどい被害があったときは、1,2回本部に呼ばれた事はあったが、空襲のたびに本部に呼ばれたようなことはない。
◆田口少尉の斬首を見たか
1人目の米兵を幕田が斬首したあと、2人目の米兵に軍刀を振り下ろしたのは、田口泰正少尉だった。
(委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 田口少尉が斬るのは見たが、「落ち着け」と言った憶えはない。田口が斬首しているのを見たとき、少し離れすぎているように感じ、誰に言うともなく「離れすぎているな」というようなことは言ったと記憶するが、刑場で田口を見たか否かはっきりしないが、3人目の処刑の時、後方に見ていたように思う。 自分のしたことはよく憶えているが、田口のことは田口が刀を振り上げたまでは大体覚えているが、その後のこと、及び第三の処刑のことははっきりしない。 処刑場に行く前に士官室で起きた事については、少しは覚えている。副長については、処刑の順序を伝えているのを聞いたように思う。司令の井上大佐、○○がいたのは覚えているが、ほかの士官ははっきりしない。
◆自分はやりたいともやりたくないとも思わなかった
(委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 司令から命令を受けた後、司令は飛行士から得た情報を皆に伝えた。それから自分は主計科事務室に行った。司令との間に会議のようなものはなかった。雑談はしたと思うが、それは戦況についての情報であったと思う。命令された後、自分はやりたいともやりたくないとも思わなかった。
◆捕虜の扱い 国際法は知らなかった
捕虜(俘虜)の扱いについては、国際法であるジュネーブ条約に規定があり、日本はこれに批准はしていないものの、海外で捕らえられた日本人の身の安全を考えて、「準用」していた。戦後の戦犯裁判では、批准したものと同じと見なされている。
また、無差別爆撃をしていた米軍機搭乗員を国際法違反として処罰するときは、軍律会議により判決を得ることが必要であり、軍律会議をひらいたかどうかも量刑を決める焦点のひとつだった。石垣島事件では軍律会議はひらかれていない。
(委員会の尋問に対する幕田の答弁要旨) 処刑前、判決を受けた者であるか否か訊ねなかった。俘虜が処刑されるには国際法により、軍律会議で判決を受けたものでなければならぬことは知らなかった。国際法は兵学校を卒業する直前、1時間半及び至2時間、講義を聞いたが、俘虜の取扱法に関することは聞いたか否か覚えていない
◆自分が処罰を受けるとは考えなかった
石垣島は戦況が切迫していたので、命令を受けた時、そのようなことを考える余裕が心になかった。不法な処刑に参加し、又はその直後、このことで自分が処罰を受けることがあるかも知れぬとは考えなかった。私は特攻隊にいて、戦備に一杯であったので、あの環境においてアメリカ飛行士の生命を取ることが正当であるか否かを考えている心の余裕がなかった。
◆指揮官が間違ったとき、意見を述べる義務はない
翌日、1月30日金曜も、幕田大尉に対する委員会からの尋問は続いた。
<公判概要 1948年1月30日(金)> (委員会の尋問続行 幕田の答弁要旨) 石垣島警備隊では、階級の上では、私は井上乙彦司令の次であったが、職務の上では司令の次は副長で、自分は司令に直属して特攻隊のことしかやっていなかった。日本海軍では指揮官が間違ったことをしている事がわかったとき、部下の士官は意見を述べる権利はあるが、義務はないと考える。且つ命令前なら意見具申は出来るが、命令後は出来ぬ。司令の命令を執行したことの外に、命令が不法であることを司令に言わなかった点でも責任があるか否かについては、その責は無い。当時は司令に命令が間違っている事を言うというようなことについては全然考えず、言わなかったことにつき、現在は感じている。
◆ほかにも斬首したことがあるか
ここで、委員長から幕田大尉に「アメリカ飛行士のほかに何人斬首したことがあるか」との質問がされたのに対して、弁護人が異議を申し立てた。この議論は休憩をはさみ続いたが、結局、弁護人の異議は却下され、幕田大尉が質問に答えることになった。幕田は軍律会議を経て処刑が決まった者を斬ったことがあると答えている。
(委員会の尋問続行 幕田の答弁要旨) 軍律会議の受刑者を数名斬ったことがある。検事側提出第18号証にこの点に関して書かれているのはダイヤー調査官が「想像で書け」と強いたもので、でたらめであると答ふ。 自分の斬首したのは全部判決のあった者のみで、その中に何名が俘虜であったかは知らぬ。軍服を着ていたものはいなかったと思う。その時の自分の階級は中尉と大尉であり、自分は軍法委員には入っていなかった。ただ、命令で死刑の執行をしたのみである。
幕田大尉は、自分の意思に反して書かれていた証拠書類については、その部分を指摘して訂正し、証人尋問を終えた。委員会には「命令で米兵の処刑執行」の事実が伝わったはずだ。しかし、死刑を免れることはできなかったー。
(エピソード58に続く)
*本エピソードは第57話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。