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特攻隊長との別れ「それ来たぞ」「いよいよ来たか」淡々と死刑執行へ~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#60

RKB毎日放送 2024年9月20日 15時19分

1945年4月。沖縄戦が始まって、石垣島も空襲が激しくなり、いつ米軍が上陸するか、緊張する中で起きた石垣島事件。3人の米軍機搭乗員の殺害に対して、横浜裁判で7人に死刑が宣告された。一人目を斬首した特攻隊長、幕田稔大尉が死刑囚の棟で同室だったのは、九大生体解剖事件で戦犯に問われた西部軍の佐藤吉直大佐。別れの日、二人が交わした言葉はー。

◆石垣島の住民からは「蛇蝎のように嫌われ」

軍人同士、気が合って、二畳の部屋に枕を並べて1年半を過ごした幕田大尉と佐藤大佐。佐藤大佐は、幕田大尉の性格を「剛直な性格の中に非常にやさしいところがあり」また「母の為には好い青年、弟妹達の為には思いやりのある兄貴」と追悼文の中で書いた。

しかし、任務に忠実な軍人は、命令であれば乱暴なことにも忠実であったのだろう。「八重山の戦争」(大田静男著1996年南山舎)によれば、幕田大尉は住民たちには酷い仕打ちをしていた。

第二三震洋隊幕田隊は、1944年10月25日に編成された。隊員184人、震洋艇52隻を備えていた。陣地は旅団が米英軍の上陸地点と予想した宮良湾に面し、また陸海軍飛行場が近いため連日空襲に見舞われた。しかし、震洋艇の出撃はなかった。 幕田隊は宮良集落の幹部に野菜や卵などの調達を強制し、調達ができなくなると抜刀し「村を焼き払う」などと威嚇した。当時の集落幹部は、今もって蛇蝎のように幕田隊長を嫌っている。(「八重山の戦争」大田静男著より)

◆はかない希望は消えて

死刑囚の棟で座禅を組み、信仰を深めて、悟りの境地に到達した幕田大尉。その幕田大尉との別れの様子を佐藤大佐は綴っている。(なお、幕田大尉の死刑執行は、4月7日の午前0時半ごろだが、仲間たちには翌8日に知らされたのか、8日と記録している人が複数いる)

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)木曜日の夜 幕田稔君の憶い出 佐藤吉直>より(1953年発行) 昭和二十五年四月八日は幕田君の最期の日である。この年はキリストの聖年であり、法王が各国政府に対し、死刑の廃止と戦犯の釈放とを勧告したことも聞いたし、恐らくはこれ以上死刑の執行はないのではないかと想像して、正月から何となく明るい気分で日を送った。 二月頃だったと思うが、我々のケースの裁判長が死刑囚を見に来たことがあった。誰かが「自分が死刑を宣告した者を見に来るということは、若し依然死刑執行するというのだったら、普通の人間では気の毒で出来ない事だろう。きっとよい徴候だ」と言ったことだった。併しそれははかない希望的観察であり、又その裁判長を知らないものであった。

◆悪い前触れ 看守の素振りがぎこちなく

スガモプリズンでの死刑執行は、前年の11月11日の後、しばらくは無かった。そのため、もう執行はないのではないかという安堵のような空気がプリズン内にあったという。

しかし、5ヶ月おいて4月に執行された石垣島事件7人の死刑が、スガモプリズン最後の処刑となった。

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)> 三月末に、石垣島ケースの再審の結果、井上乙彦大佐以下七名の死刑が確定したと発表された。それでも我々は執行はないのではないか、と僅かな希望を捨てる気にはなれなかった。しかしこの希望も無駄であった。その週の月曜頃からゼーラー(看守)共の素振りがだんだん妙にぎこちなくなって、余りものも言わなくなった。これは今迄の経験に依ると悪い前触れであった。やるな、という感じがしてきた。 いよいよ木曜の夜が来た。(※実際は水曜)いつもの訪問が、時間がきても許されないので、みんな或る予感の前に緊張しながら、焦りに駆られていた。ブロックの中は声一つ聞こえずに、シーンとした一種異様な静けさの中に時間は過ぎていった。突然、廊下の鉄扉を開く不気味な音と大勢入って来る足音が聞こえた。

◆「それ来たぞ」「いよいよ来たか」

幕田大尉を見送る佐藤吉直大佐。佐藤大佐は年下の、まだ30歳の幕田大尉の様子を見て、途中から涙を堪えきれなくなっていた。

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)> 「それ来たぞ」これが幕田君の第一声だった。 「いよいよ来たか」と応えて同時に立ち上がったが、私はともすれば涙が落ちて仕方なかった。私は勇気を出して彼の支度を手伝った。「みんな持ってゆけよ」と言って何も彼も包んだ。見ると網扉の前にはGIが立って待っている。GIは名前を呼ばずに黙ってみていた。 幕田君は煙草をくわえて落ち着いて支度を続けている。支度が全部終わった時、初めてGIが「幕田」と呼んで扉を開けた。私は幕田君の手を固く握って「残念だなあ。元気でいってくれ。俺も後から行くよ」と言った。 「仕方がないよ。佐藤さんも元気で居てくれ。色々御世話になりました。」と幕田君の言う言葉は平常と全く変わりがなかった。 「お母さんに状況を知らしてやるよ」と言うと、「母と昨日会ってよかったよ」と声を落としてしんしんと言った。前日にお母さんが半年ぶりに御出でになったのも、虫の知らせというものだったろう。彼はさよなら、と一語を残して、まことに淡々として平常と変わりない顔で去って行った。

幕田大尉の母は、この面会後、田嶋隆純教誨師を訪ねている。田嶋教誨師は説法だけでなく、死刑囚たちの助命嘆願に力を尽くしていた。半年近く処刑がなかったことで助命運動が功を奏したとの自惚れもあって、「もう大丈夫ですよ」と慰めて帰したので、急な呼び出しに面食らった、とある。(「わがいのち果てる日に」田嶋隆純編著2021年講談社エディトリアル)

◆俺は死なないんだぞ

<十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)> 彼がその翌日、執行を前にして最后の独房の中で書いた文の中には、「雨に霞む東京の街々を窓から眺めている。今夜死ぬのだというような意識は全く感じられない」という事もあった。 「マックは一体俺を殺せると思っているのかい。何を殺すんだ。俺は死なないんだぞ」といつも言っていたが、永遠の生命を確信している彼の深い信仰は、最期に於いても少しも動揺しなかった。

佐藤大佐の追悼文はこれで終わる。淡々と部屋を後にしていった幕田大尉。その心の内はどうだったのかー。
(エピソード61に続く)

*本エピソードは第60話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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