アメリカ軍の爆撃機B-29の迎撃用として大戦末期に開発された戦闘機があります。
試験飛行したものの実戦配備されずに終戦を迎え、直後に図面などが焼却処分されました。
「幻の戦闘機」とも呼ばれていますが、戦時中、監視の目をくぐり抜けて目撃していた少年がいました。
貴重な2人の証言です。
軍用機をつくっていた学徒動員の少年
福岡県飯塚市で仲間に囲まれ合唱の練習をしている小出和典さん96歳。
79年前、同じ中学校の仲間と汗を流した場所は軍用機の工場でした。
小出和典さん(96)「誠心誠意ですね、お国のために、大日本帝国のために役に立たないかん。それだけでしたね」
小出さんが働いていた「九州飛行機」。
現在の南福岡駅周辺・福岡市博多区と春日市の一帯でさまざまな軍用機を製造していました。
アメリカ軍が撮影していた巨大は軍用工場
終戦の翌年、アメリカ軍が撮影した映像です。
春日市周辺には小倉陸軍造兵廠春日製造所も含め多くの工場が立ち並んでいた様子が見えます。
小出和典さん(96)「周囲にもいっぱいずっと向こうまでいっぱい工場があるという感じで。片方が50mぐらいかな。そういう建物がザッザッザッと並んでいた」
小出さんはジュラルミンの板を張り付けて「零式水上偵察機」という飛行機の胴体を作る作業を担当していました。
零式水上偵察機は、翼の下に浮き=フロートがあり水面から発着する飛行機で、8割にあたるおよそ1200機が九州飛行機で製造されました。
板で覆われた工場内にあったもの
小出さんは、ある時監視の目をくぐり抜けて板で覆われた工場内の一角を見に行きます。
小出和典さん(96)「あそこでなんか作りよるげなという風評があってですね、行ったら工場そのものを板壁で巡らして、そういう中にも節穴があってそこからのぞいてですね。『うわぁ、へんちくりんなものを作りよるな』という感じでした。B29要撃のための戦闘機ですね」
胴体後部にプロペラ 目撃した局地戦闘機「震電」
小出さんが目撃した飛行機の実物大模型が、おととしから筑前町の大刀洗平和記念館に展示されています。
局地戦闘機「震電」です。
胴体後部にプロペラがある特異な形が特徴で、アメリカ軍の爆撃機B-29の迎撃用として大戦末期に開発されました。
RKB 今林隆史記者「映画『ゴジラ-1.0』に登場した局地戦闘機『震電』を作ったのも九州飛行機でした」
震電を製造した会社「九州飛行機」
大刀洗平和記念館は震電を製造した九州飛行機に関する展示も行っています。
大刀洗平和記念館 岩下定徳さん「九州飛行機はですね、戦前から海軍の飛行機の部品、それから海軍の飛行機そのものをですね、多く手掛けていた会社になります」「学徒動員の方たちも含めて2万人以上の方たちがそこで働いていたという記録がございます」
震電の製造に携わった技師・倉持勝朗さんが撮影していた九州飛行機の写真が残されています。
その「九州飛行機」の流れをくむのが福岡市博多区の「渡辺鉄工」です。
「震電」飛行する姿「車輪出たまま 迫力はなかった」
技術顧問を務める岡田正弘さんは、10歳の時に「震電」の試験飛行を目撃していました。
渡辺鉄工 岡田正弘 技術顧問「今考えると何か情報が入っていたのかもしれませんね。当時震電と言わずにJ7と言ってました。少し格好が違う飛行機が飛んでるなという程度で迫力はなかったですね。そういうふうに少し高いところでゆっくりですから。車輪も出たままだった」
渡辺鉄工では、戦時中の建物の一部が今も使われていますが、終戦直後にほとんどの資料が処分されたため詳細は伝わっていません。
渡辺鉄工 岡田正弘 技術顧問「製作に関する仕様書、図面がないです。全部『焼却』という命令で。ある一部の大先輩、当時工場にいた方がね『全部焼いた』と。『もう本当あなたたちに申し訳ない。今考えたら』というようなこともおっしゃってました」
「人殺しのね、道具を作っていた」
資料が限られる中で重要な戦争について証言できる人は減り続けています。
九州飛行機に学徒動員され震電を目撃した小出さん。
戦後、自分たちが作った零式水上偵察機も特攻に使われていたと聞かされました。
小出和典さん(96)「一生懸命作った飛行機が自ら進んで爆発させられるという哀れさということと。かつては人殺しのね道具を作っていたわけですけども。いずれにしても戦争はいかんですね」