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特攻隊長の遺書「原爆で死せる人間を生かしてくれたら喜んで署名しよう」死刑執行前夜~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#62

RKB毎日放送 2024年10月4日 17時38分

1950年4月5日。戦時中、沖縄県石垣島で米軍機搭乗員3人が処刑された石垣島事件で、7人の死刑執行が決まった。1人目を斬首した海軍の特攻・震洋隊の隊長、幕田稔大尉は、死刑囚の棟から別の棟へ移されたあと、便箋に鉛筆で、処刑を目前にした心境を書き始めた。いつもと変わらない表情で、仲間たちに別れの挨拶をしていた幕田大尉。その心の内はー。

◆700人分の遺稿を集めた「世紀の遺書」

石垣島事件の7人が死刑囚の棟から連れ出される場面を日記に残していた冬至堅太郎。その3ヶ月後、冬至は死刑から終身刑に減刑された。冬至が発起人となり、編纂会のメンバーとして作業にあたった「世紀の遺書」(巣鴨遺書編纂会)は、1953年に刊行された。

A級戦犯はスガモプリズンで7人に死刑が執行されたが、捕虜虐待など「通例の戦争犯罪」に問われたBC級戦犯は、7カ国49法廷で裁かれ、920人に死刑が執行された。

スガモプリズンには、アジア太平洋で刑死した戦犯たちの遺書が集まってきたという。遺書だけでなく日記などの遺稿も合わせて、約700人分が収められた「世紀の遺書」は、火野葦平によれば「日本人必読の本」だという。

◆「あとは頼むぞ」刊行の動機はこの一言

冬至堅太郎は、とにかく表に出ない人で、編纂作業の中心となった遺書編纂会の会員数名の名前も本には記していない。「遺書遺稿の浄写その他、直接間接の協力者は数えきれない」からだという。「巣鴨人全体の力によって此の書は編纂されたのだから、編纂会員個人の名は此書に留めないことにした」ということである。

「世紀の遺書」に添えられた冊子の余録には、こう書かれている。

(「世紀の遺書」余録) 「あとを頼むぞ」と云って刑場に連れ去られた友人たちの最後の声はいまだに私達の耳底に残っている。”世紀の遺書”刊行の動機は実にこの一言にあったとも云えよう。

この友人たちの中には、もちろん幕田稔大尉も入っている。「世紀の遺書」に掲載された幕田大尉の遺書を紹介する。

◆処刑言渡式を終えて

死刑囚の部屋から連れ出された幕田大尉ら石垣島事件で死刑が執行される7人は、手錠をかけられて階下へ連れていかれた。そして、スガモプリズンの所長以下、米軍将校が居並ぶ部屋に一人ずつ入れられて、死刑の執行を言い渡された。その式を終え、ブルーという棟(かつて女性の収容者が入っていた)の部屋に入れられたところで、幕田大尉は鉛筆を手にしている。

なお、スガモプリズン入所者の個人記録を見る事が出来て確認したところ、幕田大尉の生年月日が判明した。1919年2月生まれ。「世紀の遺書」では30歳で刑死となっているが、亡くなった時は満年齢で31歳だった。

<世紀の遺書 幕田稔>※現代風に書き換えたところあり
山形県出身 海軍兵学校卒業 元海軍大尉 昭和25年4月7日、巣鴨に於いて刑死 無題 夜九時頃、処刑言渡式があり、承認の署名を求められるかと考えていたがなかった。署名は兎に角こりごりである。全く強制暴力により署名させられ、それが自発的自白になる苦い経験は二度とくりかえしたくない。死によってすべて御破算になるのではない。 言渡式が始まるのを外の廊下で椅子に腰かけて待っているとき、本当に落着いた気持ちになって、考えたら死というものはない様に思われる。かねがねの不死の確信が絶対間違いでなかった事が、絶対の立場に臨んで確証されたと信ずる。 私の肉体は亡びる。生命も消散するであろう。霊魂という様なものがあったら、それも無に帰するであろう。然し現在の私は永遠に存続する。この世界宇宙は残っている。

◆私が死んでも世界は残る

石垣島事件の裁判前の取り調べ(米軍の調査)では、幕田大尉は首を絞められるなどの暴行を受け、事実でない内容に署名をさせられている。この苦い経験が、死刑執行の言渡式のタイミングでも頭をよぎっていた。そして自らが到達した悟りの世界から自分の死を見つめている。

<世紀の遺書 幕田稔> 昨年五月二十五日夜、突然私の脳裏に深き確信をもって浮かんで来た、自己即宇宙―道元の言葉をかりて云えば尽十方世界という様なものであろうかーの意義は、現在に於いては私が死んでも世界は残るという、ほのかな確信になって残っているのであると考える。 死という事が、昨年五月以前に考えていた様な感覚で、私に追って来ない。実在の死として感じられない。この感覚は私の幻覚としてほのかに私によみがえって来た様に最初は考え、言渡式が始まる頃まで消え失せるのではなかろうかなど危惧に似た思いがしたが、言渡式が終わっても依然として残っている。 私の頭脳にほのぼのとしている。であるから今の私には死という物が殆ど平常の生活に於ける感じと異ならない。恐らく読む人は誇張と受け取るかも知れないがそうでない。勿論、明日の事はわからないが、現在の心境は、五棟の三階でいつもの様に起居している時と少しも変わりはない。

◆原爆で死せる人間を生かしてくれたら署名しよう

<世紀の遺書 幕田稔> こんな理であるから理性的に考えてみれば、署名した事が私の死後どうなろうと私の知った事ではないのであるが、私は現在、即永遠の私の残生に対して、莫迦げた高圧的な圧力に屈したくなかったのである。 私の良心に対し、私の内なる仏に対し厳密に忠実でありたかったわけである。いくら考えても軍隊組織内に於いて命令でやった事が、この現実的な世界に於いて死に価するとは考えられない。原爆で死せる幾十万の人間を生かして、私の眼の前に並べてくれたら私は喜んで署名もしよう。そうでない限り受諾出来ないのである。

◆人間を罰し得るのは自分自身だけ

<世紀の遺書 幕田稔> 大体この世界に於いて、人間の行為に対し罰し得る者は居ない筈である。罰し得るのは自分自身だけである。自分自身の内なる仏があるのみである。あえて他人を罰するのは、人間の増長慢なり。神仏を知らざる神仏に逆きたる者である。 人間各自が各々自分自身を自分で罰し得る世界は理想であり、現実に実現不可能なのかも知れないが、少なくとも現在の二十世紀の人間の、余りに人間の仏性を無視し、ないがしろにしている事がここに於いて、はっきりと了解出来る。

死刑の執行は翌日の深夜。次の日のことを思いながら、幕田は鉛筆を走らせたー。
(エピソード63に続く)

*本エピソードは第62話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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