福岡市内の不動産会社が賃貸物件の入居者募集条件に「LGBT不可」という項目を記載したケースが複数確認され、記載した会社は「不適切だった」とコメントした。10月7日、RKBラジオ『田畑竜介Grooooow Up』に出演した法学者の谷口真由美さんは、LGBTや少数者への差別について「隣にいる人のことをちゃんと理解するのは、誰が相手であっても当たり前の話」と訴えた。
「ペット不可」と同じ項目に「LGBT不可」
【福岡市内の不動産会社が扱う賃貸物件で、その紹介資料の中の入居者の募集条件に「LGBT不可」という項目が表示されたケースが複数あることが確認されました】というニュースについてです。
福岡市内に住む30代の男性が、住まい探しで訪れた不動産の店舗で、賃貸物件の間取り図や賃料を記した資料に「LGBT不可」ということが書かれていて言葉を失ったそうです。この男性は自分の同性のパートナーと将来的な同居をしたいと考えていて、しかも同性パートナーとの同居などの支援に熱心な会社だということで、こちらの会社を選んだところ「LGBT不可」と書いてあったということです。
男性は「当事者の目に触れたらどう感じるか、考えて欲しかった」と朝日新聞の取材に答えています。同じく取材を受けた不動産会社は「そうでした」と記載を認めた上で、「不適切で誤解を招く事態だった」とコメントを出しています。
「ペット不可」と同じような項目の中に「LGBT不可」ということが書かれており、余計にショックが大きかったでしょう。リスナーの皆さんにも、改めてLGBTとは何かというお話からしたいなと思います。
人の性のあり方を表す4つの要素「LGBTQ」とは
人の性のあり方を表す4つの要素があります。まず「体の性」。男性器があるか、ないかみたいな言い方をされることもありますが体の性。次が「性自認」。「私は女性である」とか「男性であるか」のように、自分がどういうふうに考えているかというものです。
そして「性的指向」。「どんな性を好きになるか」というもので、「性別で男の人が好き」「女の人が好き」という性的な指向がどういう方向に向かっているか。最後に「性表現」。服装・髪型・仕草・言葉遣いという自分が表現したい性の役割がどうなのかというもので、この4つが人の性のあり方を表します。
LGBTとは、Lがレズビアン=女性が女性を愛しているということ、Gがゲイ=男性が男性を愛すること、Bがバイセクシュアル=女性、男性、二つ以上の性の方が好きだというもの、Tがトランスジェンダー=身体の性と心の性の自認が異なるというものです。
最近はここにQを加えてLGBTQとも言われ、Qがクィアもしくはクエスチョニングと言って、まだ自分が何の性であるか迷っている方も指します。
ある日突然レズビアンになるとか、トランスジェンダーになるということではなく、非常に揺らぎがあって自分の性が何かとか、自分とは何者かというのを理解するのに皆さん時間がかかってたどり着くことが多いんです。
自分の性別を聞かれたときに、私は何も考えずに女性です、性自認も女性です、体の性も女性です、好きなのは男性ですと答えますが、これは多数者の中で当たり前で生きてきたからという話で、それが当たり前じゃない、自分の状況を受け入れるのに非常に時間がかかるという場合もありますよね。
差別を受けた側は心を通りすがりに刺されるようなもの
一昨年、認定NPO法人ReBitというところが調査した結果によると、10代のLGBTQの48%が自殺を考えたことがあるそうです。これは2,670人に調査を行っているんですが、そのうちの14%が自殺未遂をしていて、LGBTQの高校生の不登校の数は一般の生徒の不登校の10倍に上り、孤独・孤立を感じている人も8.6倍です。
これは、社会的に非常に孤立しやすくて脆弱な存在であるということが言えます。とりわけ子供はそうであると言われているので、何気ない「お前ゲイなん?」とか「レズビアンなん?」みたいなそういう言葉そのものが、意図する、意図しない関係なく差別になっているということを、私達も自覚する必要があると思います。
差別というのは、そんなつもりがあった、そんなつもりがなかったとか関係ないんですよ。あろうがなかろうが差別なんですね。通りすがりに刺されたけど、「そんな意図はなかった」って言われたって、傷害罪になりますよね。「LGBT不可」と差別を受けた人間からすると、心の問題で言うと通りすがりの人に刺されるようなものですよね。
体が傷つけられたら伝わるのかもしれないけれども、精神的に傷つけられるということは人になかなか伝わらないものだし、もしかすると「LGBTQ」などをまだ隠している状況の方が沢山いるかもしれないという想像力が圧倒的に欠如している状態なんですよね。
隣にいる人のことをちゃんと理解するのは、誰が相手であっても当たり前の話
最近こんな話をすると、「いやいや、性的少数者や少数者に配慮しすぎる社会なんて生きづらい」みたいなことをドヤ顔で言う方がいます。自分として生きていることを全否定する言い方って少数者だから配慮するとか、多数者だから配慮しなくていいという少数者多数者の問題じゃないですよね。自分が生きているということに対して、皆にちゃんと自分であるという認識をしてもらいたいという当たり前の話なのに、これがまだ当たり前じゃない。
「LGBT理解増進法」という法律が去年できました。私はこの名称もすごく問題があると思っていて、今はもう、多数者が理解をしなきゃいけない、それを増進しなきゃいけないという段階ではなくて「差別しちゃ駄目です」という問題なんですよね。
多数者の側が理解するかしないかで、傷つけられて良いとか、差別されて良いとかそういう問題では全くなく、やっぱり変わらなきゃいけないのは多数者側なんですよね。少数者の人が「私達のことを理解してほしい」と言ったら、私達がそれを受け取って「ほな理解したるわ」みたいな上から目線の話じゃなくて、そこに存在し、私達と同じ社会・コミュニティの中にいて、当たり前に隣にいる人のことをちゃんと理解するということは、誰が相手であっても当たり前の話だということをまず理解しなきゃいけません。
企業で働く方も、学校生活を送られる方も、コミュニティで生きられている方も、隣の人がどういう属性であったとしても、人として扱うというこの人権の問題を考えていただけたらなと思います。