自分の生涯で残された時間は、あと1日。石垣島事件で米軍機搭乗員1人を斬首し、BC級の戦争犯罪人として絞首刑の執行が決まった特攻隊長、幕田稔大尉。1953年に刊行された「世紀の遺書」には、戦争を体験し、敗戦したあと連合国から裁かれて死刑となった人たちが、死を目の前にして書き遺したものが収録されている。特攻隊長の胸の内はー。
◆「制約なく編纂」戦犯たちの遺書を収録
1953年に巣鴨遺書編纂会から刊行された「世紀の遺書」。スガモプリズンでの死刑執行は、1950年4月7日の幕田稔ら石垣島事件の7人が最後だった。スガモプリズンでは、A級戦犯7人、BC級戦犯51人が死刑になった。しかし、これは刑死者の一部に過ぎず、7カ国で裁かれたBC級戦犯の刑死者は合わせると920人にも上る。
「世紀の遺書」に701人分の遺稿が掲載されているが、この刊行については、「当然政府のなすべきことだから、刊行資金だけでも出すように運動してやろう」という申し出もあったという。しかし、万が一何らかの制約を受けてはならないということから、これを辞退したと、余録に書かれている。
◆死に価するとは思わない
死刑囚の棟から連れ出されて処刑の言渡式を終え、幕田大尉はまず、その時の率直な気持ちを書いた。
「いくら考えても軍隊組織内に於いて命令でやった事が、この現実的な世界に於いて死に価するとは考えられない」
理不尽な現実に向き合いつつ、極めて冷静に鉛筆を走らせている。
<世紀の遺書 幕田稔> 正直な所、私は今回の判決は死に価するとは思わない。私の心を深くみきわめしとき、人間は必ず一度経験しなければならない死を無視して、永遠に自分にだけは死がないという様な考えを持っておった。それはそれでよいのであろうが、一度現実の死を深く勇敢に凝視して、人間の死は実際においてはないものだとの自覚に到達するのが、仏道の教えの一点であり、人生を自覚し、永世を得る所以であると考える。 結果は同じであり、平凡であるが自覚の内容、根底において異なるものがあるのだと確信する。私は如何なる経過をとり、その様な自覚に達するのか、哲学的な組織ある説明は出来ないが、西田哲学にいわれる絶対、無の体験を得た時、この自覚が生ずるのであろうと思う。
◆「私は宇宙」の境地
幕田大尉はこの前年、「悟りの境地に至る」という不思議な体験をした。それは死刑囚が収容されている五棟の中で話題となり、具体的にどうすればその境地にたどりつけるか、質問した人もいたが、幕田大尉は明確な答えを持ってはいなかった。その体験について、死刑の直前に次のように語っている。
<世紀の遺書 幕田稔> 一昨年九月頃から、文字通り、ただ「仏の実在か不実在か」をあきらめんとして、五里霧中の暗黒を彷徨いつづけた。文字通り寝食を忘れた精神が、全く莫迦げた私の三十年の人生にとり、一点の光明であったと信ずる。よくあの時の精力と根気がつづいたものだと顧みて吾ながら感心する。そして昨年五月二十五日が私の人生の永遠に再生した日であった。 何の理屈もいらない「吾即宇宙」。もちろん、如何にしてそんな結果になったのか。そんな事は夢にも考えていなかった私にわかろう筈もない。ただ釈尊も、このちっぽけな私も、根本においては一つであったのだ。否、釈尊がそのまま、私であったと感ずる所から来る自己の不遜に対する畏怖、気が狂ってしまったのではないかとの自己に対する疑い―この幻覚を払い落さんとして頭をふり、部屋を見廻して異状の有無を確かめたりした事だった― 次でこの世の中で苦労し悩む人々に対してどうしてこんな理屈も何もない簡単な事がわからないのかとの憐憫とも憤懣ともつかない涙がぽろりぽろりと落ちた。
◆腹の底から湧き出る笑い
<世紀の遺書 幕田稔> 次に頭に浮かんだのは「私は正に処刑されんとしているが、なあんだ、これは大宇宙を殺さんとしているのも同じ事ではないか、しらざる者の阿呆さよ」と腹の底から湧き出んとする哄笑(こうしょう)を止めんとするのに一苦労した事であった。 この噴笑の衝動は、その後、座禅しているときしばしば起こり、隣の佐藤(吉直)氏を驚かしてはいけないと止めるのに骨折ったのが、昨日の事の様に私の頭にこびりついて離れない。
「今ごろ、この俺を殺さんとするのは、丁度空気を棒でたたく様なものだ。吊り下げたと思ったら、あに計らんや、虚空の一角に呵々(かか)大笑するを聞かざるや」 思はず脱線して大風呂敷をひろげている様な格好になってしまった。昨日から書き初めた漫談であるが遺書を書かなければならぬので、一先ず筆を置く。 外は霧雨がけむっている。
昨日というのは、死刑囚の棟から連れ出された4月5日。そして死刑執行は、4月6日の夜、日付をまたいだ7日午前0時半だ。この日、東京は雨。雨音を聞きながら幕田大尉は、今度は家族への遺書にとりかかったー。
(エピソード64に続く)
*本エピソードは第63話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。