太平洋戦争末期、1945年4月に沖縄県石垣島で墜落した米軍機の搭乗員を処刑したとして、BC級戦犯に問われた幕田稔大尉。搭乗員を手にかけた5年後の4月6日、スガモプリズンでの死刑執行を前に、遺書を書き続けていた。手が疲れては少し休み、また書いてを繰り返し、生涯最後の日を過ごしていた。故郷の山形には老いた母と妹2人と弟がいた。31歳の幕田が、兄として遺した言葉はー。
◆生涯最後の日 兄として遺した人生訓
海軍の特攻隊、震洋隊の隊長として石垣島に赴任した幕田大尉。出撃することはなかったが、英米軍からの空襲が激しくなり船便も途絶する中、食糧調達のために、抜刀して島民たちを脅すこともあった。米軍が作成したスガモプリズン入所者の基本データには、1947年2月入所時の幕田の身長と体重が記されている。身長165センチ、体重62キロ。髪は長髪でくせ毛の前髪が額にかかっている。1年前とはいえ、死刑を宣告されている表情よりずっと柔らかい印象だ。
幕田稔の遺書は長文だが、幕田の最期を見届けた田嶋隆純教誨師は、「わがいのち果てる日に」(1953年講談社)に、かなりの頁を費やして掲載した。この本は2021年、「わがいのち果てる日にー巣鴨プリズン・BC級戦犯者の記録」というタイトルで、講談社エディトリアルから復刊された。「刀剣と歴史」(昭和57年11月号)には掲載されなかった部分をここから紹介する。家族に向けた「昨日今日の日記」と題した遺書。兄として弟、妹への人生訓が記されている。(現代風に書き換えた箇所あり)
◆真の独立から自由が生まれると信ず
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> ○子、弟、○子様、私の生活信条の一つは人に過度に頼らぬことです。自分の全力を尽くして天命を待つにあります。真の独立から自由が生まれると信じます。自分で一人立ちできない人は人生の落伍です。自分のことは自分で処理する覚悟を持ちなさい。それで失敗したら他もうらまず自分でも納得がゆくでしょう。 今度の件でも最初から私は自分では全力を尽くしたと信じます。そして今の今まで全力を尽くして勉強して来ました。決してものごとを中途で投げてはいけません。だから私は形の上では権力に敗れましたが、真の意味の人生の勝利者だと深く確信しています。
◆最後まで私の全力を尽くします
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> どんなに苦しくても、歯をくいしばって自分でやり通す覚悟を持ちなさい。人間の能力は皆五分五分です。努力如何でどうでもなるものです。私はこの先も最後まで私の全力を尽くします。否永久に。 数時間といえども私は決して投げません。最も有効に使うつもりです。悲惨なる東洋民族の勃興を見つつ、そして彼等のために死ぬると思えば気持ちがよい。誰が何といおうと、私の心中に燃えていたものはそれなんですから。今から日本人も大人にならなければなりません。 皆さんその心算で一人立ちで人生を歩く決心をしなさい。だからといって母上はじめ年長の人のいうことはとくにきいて考えなければいけません。間違いのないように。
◆若い人は先人を踏み越えて進め
幕田の父は敗戦時、満州からソ連軍に連行され、その年の10月9日、抑留所内で栄養失調で亡くなっている。
幕田は母や3人の妹弟を養うために北海道の魚粉会社に勤めていたときに、米軍に拘束された。スガモプリズンの基礎データでは職業は「オフィスワーカー」となっているので、事務職だったということだろう。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 父上も実に気の毒なことをしましたが致し方ありません。若い者は先人を勇敢に踏み越えて進まなければなりません。過去をくよくよしているのは年寄りだけです。斃(たお)れるまで前進あるのみ。 書いていると懐かしさの情が次から次へ順序も連絡もなく限りがありません。私も人生あと五十年として二十年生きていても、ただ酔生夢死するのがオチであるかも知れません。今のぐらいが丁度よいところだと思います。私の決して年寄らざる印象を皆さんに残して行けますから。
◆死を怖れ、たじろいでいては何もできない
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 執行は今夜半の十二時半過ぎだそうですが問題にしていません。世の中には死より困難なことがいくらでもある。死を怖れ、たじろいでいるようでは一大事因縁どころか何もできない。死の解決は仏教の一大事因縁解決の副産物に過ぎない。ここまで書いていると午後二時頃かと思います。一休み。
朝から遺書を書き続けているうちに、窓の外は「雨も晴れ、うらら寒い雲模様」になり、途中、手が痛くなって休みながらも、幕田は鉛筆を走らせる。書いている紙は普通の便箋だ。一休みして、また短歌を詠む。一緒に同夜処刑される、石垣島事件の榎本宗応中尉が隣の房に居て、歌を披露している。「榎本君」といっても年はひとまわりと少し上の40代半ばだ。
◆自分が死ぬ夜には月が出てほしい
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> ついの朝の庭にけぶれる春雨を網窓(ど)をあけてしばしみにつる 吾が最後の林檎にあれば思いきりかぶりつきたり紅き林檎を 遠きとおき自動車の警笛ときおりに房に死を待つ吾に聞こえ来 しんしんと更けたる房に眼さめいて刹那(せつな)のときが惜しくなりけり(昨夜) 朝(あした)より曇れる網窓にひる更けて薄き明りがしばしさしけり 吾が死なむ夜は月出でかしと欲(ほ)り居しが今日は曇りて午後も更けたり 近頃少しも短歌を作らぬ私が推敲もしないので作ったのですから判らぬかもしれませんが、よく読んで下されば、私の気持ちの一端ぐらい判って下さることと信じます。今少し前、榎本君が自作の短歌一つ隣の房から皆んなに朗詠して聞かしてくれたので急に作りたくなって作ってみました。 ○子さんよ、○子さんよ、○君よ、(注・妹弟の名)本当に幸福な人生を送って下さい。私の家の不幸は父上と私で十分だと思います。そしてくどいようですが母上を大事にして下さい。 遺書かき終えしが隣房の友の口笛かすかに聞ゆ
この後、幕田大尉は、一緒に旅立つ石垣島事件の仲間たちと田嶋教誨師で、最後の晩餐に臨む。その様子も幕田は遺書に書き留めたのだったー。
(エピソード68に続く)
*本エピソードは第67話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。