1950年4月7日午前0時半。BC級戦犯として死刑を執行された幕田稔大尉。海軍兵学校を卒業した幕田大尉は読書好きで、もっとロシア・フランスの翻訳本が読みたかったと遺書に書いた。31歳の幕田はトルストイの「戦争と平和」に胸打たれたという。3年あまりをスガモプリズンで過ごした幕田は、刻々と迫る死刑執行を目の前にしながら、ラジオで洋楽を聞き、最後の夕食で久しぶりの酒に酔うのだったー。
◆監視されて生きるのはほとほといやに
死刑執行まで寄り添った田嶋隆純教誨師が書き写した幕田大尉の遺書は、残り少なくなってきた。
「わがいのち果てる日にー巣鴨プリズン・BC級戦犯者の記録」 田嶋隆純編著(2021年講談社エディトリアル)より <幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 私の実際のところ、機械のような人間に監視されて生きているのはほとほといやになっていたのでした。今晩で総て結果がつき、あっさり解き放れるかと思うとほのかに満足を覚ゆ。 小松さんにも一遍書きましたが母上よりもよろしくお願い申し上げます。遺髪、爪を田嶋さんが折角とりに来てくれましたのでやりました。薄暗くなってしまいました。先生と一緒に最後の夕食を直ぐ摂ることになっています。 ラジオをかけてくれたので洋楽を聞いています。また雨が降ってきました。朝から遺書を書き通しで疲れて聞くラジオ音楽は無上に楽しい。田嶋先生は先を考えないで瞬間瞬間を楽しく過ごせといわれた。その通りだ。忘れていたが、「かいみょう」もいらないのだが、やはり幕田稔がよい。親がつけてくれた名前だ。(略)
◆わずかの酒でだいぶ酔ってしまった
スガモプリズンでの執行前、最後の食事は田嶋隆純教誨師も一緒だった。何が食べたいか、リクエストも可能だったという。石垣島事件で絞首刑が執行されたのは同じ日に7人だったので、田嶋教誨師も入れて8人での「最後の晩餐」となった。同席した田口少尉の遺書によれば、午後5時半ごろから始まり、およそ1時間、用意されたウイスキーを飲んで御馳走を楽しみ、「世界的名曲から流行歌、渋いところまで」皆で歌ったという。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> (夕食)僅かの酒で大分酔ってしまって、ブンガワンソロ、ラパロマ、アロハオエ。二人の擲弾兵(てきだんへい)等大分犬吠埼(いぬぼうさき)をはりあげる。四年ぶりの酒で大分よい気持ちだが、矢でも鉄砲でも持って来いとまでは今少しだ。最後の夕食を食い終わる。宿望のトンカツ、ハム汁、にぎり鮨、刺身、洋梨子の御馳走である。一同極めて朗らかな会食。「元気でいこう」とは一同の声。 今晩の死出の旅も、小学生のとき、遠足に行く前夜の未知の地に対するほのかな好奇心に似たもので、私は待っているだけである。
◆読書家の特攻隊長が読んだもの
この「昨日今日の日記」は、あえて「遺書」という名前をつけずに、妹弟に向けて書かれている。読書家だった幕田はスガモプリズンで図書係をしていた。
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 正法眼蔵を通読しようと思いながら、身の衰弱のため要点を拾い読みきりできなかったのが残念である。自分の深奥の心と照合しながら、読まなければならないので時間と根気を要する。豊でもいま少ししたら、私の遺志と思い通読して下さい。坐っては読み坐っては読みしないと分からない本だ。自分で判った分きりしか理解できない本である。 ロシヤ、フランスの翻訳小説をも少し読んでみたかった。しかしトルストイの「戦争と平和」ぐらい胸を打たれたものは皆無であった。勉強は一生のことだから、こつこつ倦まず撓まず、死ぬまで続けてください。―あせらずにーそれでも人生の重荷が肩から下りたような清爽軽快な気持ちもしないでもない。あせると失敗する。一事ずつ十分噛みくだいて急がぬようにしなさいー何ごとでも同じです。酒が少し冷めかけて来たが、仲よくして生活してゆくのを考える安堵に似たものが胸に起こる。くれぐれも私はいわゆる死んだのではありません。
◆世界は醜くもあるが本当に美しい
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> こういっては何だが、道元禅師のいっている要点はピタリと把えている自信を持っているのだから。病気などでいやだいやだと思い死ぬのとわけが全然違うのですから、私は先にもいった通り、自分の確信をこの私の人生という道場で自証するため自ら死にとび込む心算でいるのですから、だから必ず生きているのだと思い心を強く朗らかに明るく持ってください。 この題にもだから、わざと遺書などと爺むさいことをいわずに「昨日今日の日記」としたのです。また明日も明後日も生きて続いてゆくという意味をもって。別のは漫談と題をつけて下さい。題をつけずにしまいましたから。BでなくてAの方です。 真っ暗くなってしまいました。窓を開けていると真ん前の方に赤と紫の、やや右手の方に緑のネオンサインが見えます。世界は醜くもあるがまた本当に美しいと思います。今日も便秘で腹が張っている。が二年間兎も角気をつけた甲斐あり、歯痛も痔もことなく過ぎたのはうれしい。
◆元気に朗らかに仲よく
<幕田稔の遺書(昨日今日の日記)> 今日夕食のとき、榎本氏が入道頭をして襟の破れたボロボロのシャツを着て喧嘩の後のような格好で酔っぱらい、はげ頭をして、莫迦に色っぽい小唄など歌ったり、詩吟を唸ったりしていたのを思い出すと可笑しくてたまらない。 一寝入りしようとするが、やかましくてなかなかねむれない。吾々の日常生活に於て起滅する意識は死の意識と本質に於て同じものであるようだ。吾々の生活はどれをみても一生に一度きりないものであることに変わりはない。 どこまで書いても限りがないので夜も遅いからこれで止める。 元気に朗らかに仲よく、皆様、母上様。
◆執行は午前0時32分
国立公文書館に、英文の石垣島事件の処刑報告書があった。日付は、1950年4月7日午前11時。翌朝に作られた文書だ。
それによると、幕田大尉の絞首刑が執行されたのは、午前0時32分。司令の井上乙彦大佐と、副長の井上勝太郎大尉、幕田大尉と、田口泰正少尉の4人が同時に執行された。そして23分後の0時55分に、榎本宗応中尉、成迫忠邦上等兵曹、藤中松雄一等兵曹の3人が執行された。新聞にも掲載されたようだ。
これが、スガモプリズン最後の処刑だったー。
(エピソード69に続く)
*本エピソードは第68話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。
◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。