80年前、動物園で飼育されていたゾウが殺処分される様子を目撃した男性がいます。
戦時中に起きた悲劇を繰り返してはならないと、当時のことを語り始めました。
福岡市動物園にやってきた4頭のゾウ
「来ました来ました!象を乗せたトラックが今やってきました」
7月末、福岡市動物園にやってきた4頭のゾウ。
途中で1頭死んでしまったものの、残りの3頭は慣らし飼育を経て、11月30日に一般公開されることが決まりました。
動物園のアイドル的な存在のゾウですが、人間が起こした戦争によって命を奪われた歴史もあります。
その歴史を後世に語り継ごうと、数年前から悲しい記憶を語り始めた男性がいます。
ゾウ舎の横に住んでいた父と少年
熊本市に住む金澤敏雄さん(87歳)。
幼いころ、熊本市動物園の飼育員だった父親とともに、ゾウ舎の横に住んでいました。
金澤敏雄さん
「ガラスを一枚挟んで手前がゾウ舎、こちらが私たちの住まいでね」
父・太郎さんは3歳でインドからやってきたゾウのエリーに、2年間、つきっきりで芸を仕込みました。
エリーと敏雄さんの年齢は1つ違いで、兄弟のような遊び相手だったといいます。
金澤敏雄さん
「バケツの水があるたい。それを鼻に入れて、私に吹きかけるんですよ。そういう茶目っ気もあったんです。」
食糧難、飼育員が自力でエサを確保
戦争の余波は、日に日に動物園にも押し寄せました。
食糧難で手に入らなくなる飼料。
飼育員たちは自力で動物たちのエサを確保していたといいます。
金澤敏雄さん
「園内に家庭菜園を作って、それをウサギとかそういった動物の飼料にしたり、そのウサギたちは、トラとか、オオカミとかの食糧になる」
「猛獣を殺処分せよ」
1943年12月27日、旧日本陸軍は空襲で檻が破壊され猛獣が国民に危害を加える恐れがあるとして、熊本動物園に命令を下しました。
「猛獣を殺処分せよ」
各地の動物園で殺処分が行われる中トラ、ライオン、クマなどが次々と殺処分されました。
そして1945年4月、いよいよエリーにもその時が訪れます。
隣に住んでいた金澤さんは、その最期を覗いてしまったのです。
兄弟のように育ったエリーの最期
金澤敏雄さん
「最初はゾウのプールがあるわけですよ、そこに高圧電線を流して、エリーがプールに足を突っ込んだら、そこでスイッチ。でも、エリーは自分の運命を察知していたのか、全然寄り付かない。ウォーと泣いて、後ずさりする。だったらもう中止と。私は木の陰で見とってね、よかったよかった、助かった!と」
安堵したのもつかの間、立ち会っていた第6師団の司令長が口火を切ります。
金澤敏雄さん
「『おい、金澤、お前が殺せ!』やっぱり軍の命令に逆らうことはできません。」
父・太郎さんは、電流が流れる棒の先に、エリーの好物だったサツマイモを巻きつけました。
金澤敏雄さん
「エリーからいもだよ。エリーは鼻を上げて、それを口の中に無理やり押し込んで、それから何分もしないうちに横倒し、父もね、ごめんねエリー許してくれ、心の中で叫んで、押し込んだらしい。やっぱりその時の父の心苦しい気持ちは、ずっと亡くなるまで消えなかったそうです」
わが子のようにかわいがったエリーを自分の手で殺めてしまった無念さ。
さらに…
金澤敏雄さん
「そのゾウの肉はね、部隊の兵隊さんのごちそうになって消えていったんです。ゾウ舎の裏の水路があるでしょ。3日間、赤い血が溜まったまま。」
日本は、この日から4か月足らずで終戦を迎えました。
エリーの下あごの骨に涙
今、熊本市動植物園にはエリーの下あごの骨が展示されています。
当時、ゾウを解体した業者の親戚が自宅に持ち帰り、40年もの間、ずっと供養していたそうです。
金澤敏雄さん
「両端には花が植えてあって、真ん中には線香があって、私はそれを見て涙が出たです。願わくば、父が生きていたら、連れて行きたかったなぁって」
「戦争のない日本であってほしい」
11月11日、金澤さんの姿は福岡市の演劇ホールにありました。
行われていたのは、野坂昭如さんの戦争童話集の朗読劇です。
出演者「一か月以内に猛獣を殺処分せよと、戦時猛獣処分命令を出しました。」
作品のテーマが、動物園のゾウの殺処分だったということもあり、金澤さんは舞台に招かれ、エリーにまつわる展示も行われました。
金澤敏雄さん
「父の位牌の前でね、今日は博多に行って、お父さんとエリーの話をしてきますって。戦争のない日本であってほしい。それが願い。そうすれば、こういう話も生きてくるったい」
福岡市に4年ぶりに訪れた平和の象徴とも言われるゾウ。
戦争を語り継ぐきっかけを私たちに与えてくれています。