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「同じ事を同じ状況で行ったのに」死刑執行された26歳上等兵曹と減刑された兵曹長 今生の別れ・・・澄み切った瞳を忘れられず~28歳の青年はなぜ戦争犯罪人となったのか【連載:あるBC級戦犯の遺書】#75

RKB毎日放送 2025年1月10日 14時12分

石垣島事件で死刑執行された26歳の成迫忠邦。石垣島警備隊の上等兵曹だった成迫は、3人の米兵が殺害された現場に同じく居た炭床静男兵曹長とスガモプリズンで同室の時期があった。命令によって米兵を銃剣で突いた二人。同じ事を同じ状況で行った二人の運命は分かれ、炭床兵曹長は、成迫が処刑される直前に死刑から重労働40年に減刑された。命をつないだ兵曹長が成迫への追悼文に残したのはー。

◆学徒出陣で軍隊経歴の短い下士官

鹿児島県出身で、成迫より6歳ほど年上の炭床静男兵曹長は、1945年に成迫が石垣島警備隊迫撃砲隊先任下士官として着任してからの知り合いだった。成迫は着任当時、最も若い先任下士官であり、しかも学徒出陣で軍隊経歴の短い下士官だった。職業軍人で甲板士官の職にあった炭床兵曹長は、各隊に対して無理な注文をしていたものの、成迫は戦局を良く理解し、最も良き協力者として努力してくれていたので、印象に残っていたという。

炭床も成迫も、石垣島事件で殺害された3人の米軍機搭乗員のうち、杭で縛られたロイド兵曹を銃剣で刺していた。成迫は2番目、炭床は10人以上後だ。いずれも命令によっての行為だ。

巣鴨遺書編纂会が1953年にまとめた冊子、「十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」に炭床静男が寄せた成迫忠邦への追悼文がある。(注・成迫が処刑されたのは4月7日、石垣島事件で死刑判決を受けたのは41名だが原文のまま掲載する)

◆しっかりしていて感心させられた

(成迫忠邦君を憶う 炭床静男)
十三号鉄扉(散りゆきし戦犯)」巣鴨遺書編纂会 1953年

1948年3月16日と1950年4月8日、この両日は吾々石垣島事件関係者には忘れることが出来ない日である。というのは、前者は元石垣島海軍警備隊司令井上乙彦大佐以下「四十名に対し絞首刑」と云う戦犯史上空前の極刑が横浜の米軍軍事法廷で判決された日であり、後者はその早朝、巣鴨拘置所で前記井上大佐外六名の死刑が執行された日であるからである。私がここに述べる成迫君もその一人である。 裁判中に於ける態度も、長い軍隊経歴を有する吾々よりもしっかりしていて、感心させられたものである。判決を受けたその日の午後二時過ぎ、当時の死刑囚棟であった五棟に入れられたのであるが、成迫君と私は二畳の独房に同居することとなった。

◆判決の日も笑顔 余裕の態度で

17歳で佐世保海兵団に入団し、海軍兵学校で教官を務めた経験もある炭床静男は、年下でしかも学徒兵だった成迫のしっかりとした態度に驚いていた。判決の日にも成迫は、余裕の態度で冗談を言っている。

(成迫忠邦君を憶う 炭床静男) 死刑の判決を受ける日、吾々は横浜に昼の弁当を携行して行ったが、その弁当は給食されず、五棟に入った後、別の食事が支給されて、然もその食事は裁判中のものより量が少なかった。すると君は「炭床さん、こんな食事では吊られる前に死んでしまうよ」と言ったのだが、この言葉を今も私は忘れる事が出来ない。普通の者には、判決の日の食事は喉を通らないと云う事を聞いているからである。私共の房の前の房には、裁判中御馴染のI君がいたので、食事の事を聞いて見ると、不断は相当の量があるということだったが、成迫君は、それを聞いて安心した、と笑っていた。死刑の判決を受けたその日、成迫君のこの余裕綽々たる態度に私は感心した。

◆幼いころからお母さんとお経を上げた

(成迫忠邦君を憶う 炭床静男) その日の夕食も終わって暫くすると、読経の声や讃美歌の歌声が次々に起って来た。君も壁に向いて般若心経を講し始めた。私は何も知らないので唯、茫然とそれを聞いていたが、終わってから聞いて見ると、成迫君は幼い時からお母さんと共に朝夕お経を上げたとのことであった。私は家が真宗で時折は御経を聞いた事もあるが、それ迄は全然宗教などと云うものには関心はなかったので、その土壇場になって戸惑っていたのである。早速、次の日から君に就いて如何に死ぬべきかを研究し始めたのであった。当時は約一年間死刑の執行もなく割合のんびりしていたので、まだ死の研究などと呑気な事を考えていたのである。 其の後約一ヶ月、君と起居を共にしたが、その当時は気分転換の為時々部屋の入替えが行われて居たので私も君と別れて他の者と同室することになった。

◆同じ事を同じ命令によって行ったのに

1948年3月16日に死刑の宣告を受けてから10ヶ月後、1949年1月10日に米軍の第八軍司令官の再審が発表され、死刑は41人から13人にまで減った。しかし、13人の中には炭床静男も成迫忠邦も含まれていた。同じ運命にある死刑囚たちは、訪問時間に関係者の部屋に集まって、互いの心境を語り、執行日の予想を話し合ったりしたそうだ。そして再審から1年2ヶ月が経過した1950年3月29日、二人の運命は分かれた。

(成迫忠邦君を憶う 炭床静男) そして三月二十九日、突如石垣島関係者六名の減刑が発表された。其の中に幸にも私の名前もあったが、遂に成迫君の名前を見出すことは出来なかった。同じ事を同じ命令に依り行ったのに、吾々のみ減刑となって君等に対して慰め様はなかった。「暫くの辛抱だと思うから頑張って呉れ」と言っては見たものの吾ながら何かそらぞらしい思いに苦しんだ。出て来る私共を笑って見送って呉れたのだが、これが今生の死別となってしまったのである。あの時の君の笑顔、そして澄み通った瞳、私はそれを永久に忘れる事が出来ない。

◆「平気ですよ」にこにこ笑って絞首台へ

(成迫忠邦君を憶う 炭床静男) 四月六日朝、石垣島の七名は昨夜ブリュー(巣鴨拘置所内の米軍が名付けた地区名)に移されたと聞かされた。私は全身の力がぬけたようで、暫しは動く事も出来なかった。一週間前あんなに元気で送って呉れたのに、此の世には神も仏もないものか、何の罪もないものをどうして殺さなくてはならないのか。吾等の気持を考えると只涙が滲み出るばかりであった。 四月八日早朝、遂に七名の方々は絞首台上の露と消えられた。 後日減刑された方々の話に依れば、七名の方々は皆元気で行かれたということであった。 特に成迫君はにこにこ笑って「平気ですよ」と言って行かれたというのである。年若くして刑死された成迫君の冥福を祈りつつ。

26歳の若者は、どうやって穏やかに死に向き合うことが出来たのだろうかー。
(エピソード76に続く)

*本エピソードは第75話です。
ほかのエピソードは次のリンクからご覧頂けます。

◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか

1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。

筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。

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