26歳でスガモプリズンの絞首台で命を絶たれた成迫忠邦上等兵曹。太平洋戦争末期、沖縄県石垣島に墜落した米軍機の搭乗員を殺害したとしてBC級戦犯に問われた成迫は、死刑執行を前に、1950年4月5日、死刑囚の棟から連れ出された。同じ棟の仲間達に別れを告げる成迫は、にこにこと笑っていたという。わずか26歳にして、最期の時を穏やかに迎えた成迫の心の内はどうだったのかー。
◆最後の「同房の友」は副長の井上勝太郎大尉
死刑囚たちに死刑執行まで寄り添い、「巣鴨の父」と慕われた田嶋隆純教誨師が1953年に著した「わがいのち果てる日に」(大日本雄弁会講談社)に、成迫と同じく石垣島事件で死刑執行された井上勝太郎の遺書が収録されている。「世紀の遺書」(1953年巣鴨遺書編纂会)には収録されていない部分のようだが、この中で井上勝太郎は刑の執行のために死刑囚が集められた五棟から連れ出される様子を書いていて、同じ部屋にいたのが成迫であったのが分かる。
井上勝太郎は成迫と同い年か1歳年上で、井上勝太郎は慶応義塾大学、成迫は日本大学で学んでいた。井上勝太郎は事件当時すでに大尉で、人材不足の中、22歳くらいで石垣島警備隊の副長の任に当たっていた。
◆手錠の音が・・・直ちにピンと来た
「わがいのち果てる日に」(田嶋隆純編著 2021年講談社エディトリアルより復刊)
(井上勝太郎の遺書より) 水曜日(1950年4月5日)夕食後より手錠の音が盛んにしていた。成迫君は余り気にしていなかったようであるが、私は直ちにピンと来るものがあったので、用意をし始めた。間もなく成迫君も気づいた。私は日記の余白に最後の記録を書き込んだ。そして本の整理を始めて私物の整理を終わり、最後にと思って煙草を吸いつけた。そのとき階下の人達は入浴中であったが、全部房に入れられ扉を閉められた。
(井上勝太郎の遺書より) それからすぐ例の軍曹が来てレッツゴーという。用意していたので間もなく用意はできる。それから手錠をかけられお別れに回る。一人一人丁寧に、そしてもう後は決して処刑のないことを祈りつつ、皆が終わったところで廊下に出る。三階の果ての格子が人気の無き夜の獄に立っている。それは私の記憶に残った。この頃から、私は眼に映るものを凡て記憶に止めようと意識し始めていた。中央廊下の階段を一階まで降りる。三棟の前を通るとき、入浴を終わったらしい人々が沢山見ていた。
井上勝太郎と同室だった成迫も、同じ景色をみたことだろう。
井上勝太郎は、成迫と話し合い、「実際、我々はもう再び世に出るようにはなっていない」と言い合っていたという。仏の道を究めて、「なし得たことに満足している」と言い切っているので、死刑執行を告げられた日も覚悟は決まっていた。
◆いつもと変わりない様子で旅立つ死刑囚たち
一方、福岡の西部軍が関わった米軍機搭乗員の殺害事件でBC級戦犯となり、死刑囚として井上勝太郎や成迫と同じ「五棟」に居た冬至堅太郎。この連載でも度々登場しているが、冬至がスガモプリズンで書いた日記には、成迫ら石垣島事件で死刑を執行された7人が「お別れに回る」様子が一人ずつ書かれている。冬至はスガモプリズン最後の処刑となった石垣島事件の死刑執行から3ヶ月後、朝鮮戦争勃発のすぐ後に、終身刑に減刑された。26人の死刑囚の仲間を見送った冬至は、「淡々と、いつもと変わりない様子で、仲間たちは去って行った」と息子たちに語っている。
冬至堅太郎が日記に記した成迫忠邦との別れも、まさにそうだった。
◆「すっきり死んでください」「ええ」
(冬至堅太郎の日記 1950年4月5日) 四人目は成迫君。これもニコニコと笑っている。 N「やあ、お世話になりました。いよいよ行きますよ」 T「残念だが仕方がない すっきり死んでください」 N「ええ」 T「私もすぐ追っかけますからね」 N「いや、あまりいいところじゃありませんからね。刑場へ行くことだけは止めてください」 T「そう言っても、どうせ行かなくてはならんでせう」 N「然し変ですね。何ともありませんよ」 T「そうですか、結構です。じゃ行ってらっしゃい」 N「さよなら 行って来ます」
◆「現在を最善に生きる」ことは「永遠に生きる」道
田嶋教誨師は、石垣島事件7人の処刑の翌日、死刑囚たちへの講話で、次のように述べたと冬至堅太郎は書き残している。
「田嶋先生と死刑囚」冬至堅太郎
(「すがも新聞」一三五号 昭和二十六年一月二十日付)
石垣島事件の七名が処刑されたとき、先生はいままでにない厳然な態度で、「現在を最善に生きる」こと、それが同時に「永遠に生きる」道であり、仏教八万四千の教えはこの一事に究極することを、きわめて簡潔に説かれた。それは私たちに最後の覚悟を、それとなく求められたのであった。
田嶋隆純の教えは、絞首台に向かう成迫の心の中にも「永遠に生きる」道をひいたようだ。成迫がスガモプリズンでの信仰の日々について遺した文書があったー。
(エピソード77に続く)
*本エピソードは第76話です。
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◆連載:【あるBC級戦犯の遺書】28歳の青年・藤中松雄はなぜ戦争犯罪人となったのか
1950年4月7日に執行されたスガモプリズン最後の死刑。福岡県出身の藤中松雄はBC級戦犯として28歳で命を奪われた。なぜ松雄は戦犯となったのか。松雄が関わった米兵の捕虜殺害事件、「石垣島事件」や横浜裁判の経過、スガモプリズンの日々を、日本とアメリカに残る公文書や松雄自身が記した遺書、手紙などの資料から読み解いていく。
筆者:大村由紀子
RKB毎日放送 ディレクター 1989年入社
司法、戦争等をテーマにしたドキュメンタリーを制作。2021年「永遠の平和を あるBC級戦犯の遺書」(テレビ・ラジオ)で石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞奨励賞、平和・協同ジャーナリスト基金賞審査委員特別賞、放送文化基金賞優秀賞、独・ワールドメディアフェスティバル銀賞などを受賞。