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「雲仙のホームドクター」太田一也さん逝く…普賢岳災害を取材した記者が回想

RKB毎日放送 2025年1月22日 15時43分

1991年に大火砕流が発生した雲仙・普賢岳の火山災害で、地元で火山研究に奮闘した太田一也・九州大学名誉教授(90歳)が1月15日、長崎県島原市内の病院で亡くなった。「雲仙のホームドクター」と呼ばれ、地元住民から大きな信頼を寄せられていた。新聞記者時代に普賢岳災害報道に携わったRKB毎日放送の神戸金史解説委員長が、1月21日に出演したRKBラジオ『田畑竜介GrooooowUp』で、太田先生への感謝を語った。

島原市で開かれた太田先生の通夜へ

前職の新聞記者時代に長崎支局に配属された1991年、雲仙が噴火中で、僕は現場で取材していました。その年の6月3日の大火砕流災害では、多くの人が亡くなりました。翌92年から、僕は島原市に常駐して、終息までを見ることになりました。

そのとき、太田一也さんには大変にお世話になりました。1月16日に通夜があり、島原市まで行ってきましたが、多くの研究者やメディアの仲間が島原に集まって、太田先生を偲びました。本当に立派な方でした。

太田先生は島原半島内の国見町(現・雲仙市国見町)出身で、九大理学部を卒業した後、炭鉱会社に就職をしています。その後、大学院に戻って研究者となりました。島原にできた火山温泉研究所に着任して、30年にわたって火山地質の研究をしていました。

その中で、普賢岳の噴火に遭遇することになったわけです。雲仙にとって、4000年ぶりの造山活動。島原半島に、新たに山ができてしまうわけです。そこに、地元出身で地道に研究を重ねていた太田先生がいた。これは、かなり珍しいケースだと思います。

防災と住民生活の間で

大火砕流災害(1991年6月3日)の後、警戒区域が設定されて、住民の立ち入りが禁止されました。さらに、周辺には避難勧告地域が設けられ、住民が家に住めない時期が何年も続いたのです。避難者は最大時1万1000人。どこまで「線を引く」のかということが、行政としては非常に悩みどころだったと思います。

雲仙の場合、火砕流は山頂にできた溶岩ドームがポロリとこぼれ落ちて発生します。高温・高圧の火山性ガスが溶岩の中に詰まっています。斜面を転がり落ちると溶岩が割れて、ガスが出ます。それが西風に乗って広がって、家が焼けたり人が亡くなったりしてしまうのです。

どこまでが立ち入り禁止かを、行政は決めなきゃいけない。火山学者は、危険を訴えて広く言う方が普通ですが、実際に生活している住民の生活とのバランスも取らなければなりません。

そこで行政は非常に苦しむのですが、太田先生は「学者だから、こうしか言わない」という態度は決して取りませんでした。当時の行政のトップは「ヒゲ市長」というあだ名で知られた鐘ケ江管一・島原市長と、深江町(現・南島原市深江町)の横田幸信町長です。

会議で、どこまで規制を緩和するか、拡大するかを決めるのですが、会議に太田先生も必ず入って、徹底的な議論をしていました。そのため太田先生は、「雲仙のホームドクター」とも言われるようになったわけです。

県警の災害警備隊長が寄せた信頼

長崎県警島原警察署の災害警備隊長だった牟田好男警視は、非常に立派な警察官でした。国道を通行止めにすることは、住民生活に直結するので、どうしたらいいかを非常に悩んでいました。太田先生は牟田隊長に、こう話したと言います。

・本来は終日通行止めが望ましいと思っている。 ・火砕流の発生時間は昼夜関係なく、いつ発生するか誰にも分からない。 ・行政の判断で通行を一定時間解除していることでもあり、危険地帯を一刻も早く通り抜けてもらいたい。 ※『太田一也教授退官記念文集』(1999年)所収、「前線にて」(牟田好男筆)より。

どう判断するかを、真剣に牟田隊長は考えて毎日のように被災地を巡視していました。以前の土石流で溝が掘れてしまって、ここに流れが来やすくなっている。雨が降ったら今回は間違いなく土石流がここに来るだろう。その前には、この辺りまで水が来るだろう…。

牟田隊長は巡回しながら「ここまで水が来たらもう危険だ」と決めていくのです。牟田隊長の災害警備指揮車に同乗して取材したことがありますが、判断はギリギリでした。先ほど通った場所が、次にはドーンと土石流でやられていました。

牟田隊長は、太田先生の意見を踏まえ、励まされながら災害警備に取り組んで、在任中に土石流による死者を1人も出しませんでした。牟田隊長は、太田先生に対して非常に感謝していました。太田先生は、そういう学者さんだったんです。

※神戸解説委員長が28歳当時に書いた手記『雲仙記者日記』(ジャストシステム刊)で、牟田隊長の活動を克明に記録している。現在はnoteで全文公開中。

心身とも疲弊した私に太田先生は

僕が島原市に常駐して2年目、1993年はあまりに災害が多く、4月には土石流で400軒の家が一晩で流されてしまいました。家が壊れている現場で取材しました。火砕流も起きて、6月には自宅が心配で見に帰った方が1人亡くなってしまいました。そしてまた土石流。災害が何か月も続くのです。

「災害に負けず頑張ろう」と記事を書いていたのですが「記事を見て『頑張ろう』と自宅に戻った人が、今回の土石流で家を流されたんじゃないか」と考えると、もう苦しくて…。

何のためにこの仕事をしているのかもわからなくなり、心身ともに疲弊してしまいました。そこで、太田先生の研究室に行って「苦しいです。もう、何を書いていいかわかりません」と言ったことがあります。

すると太田先生は「今こそ防災工事を進めるべきだ、と神戸くんも書きなさい。今こそ書くんですよ」と。太田先生は、僕よりずっとつらい立場に置かれていました。太田先生の判断基準がどうなのかを常に問われ、批判も受けていた方ですが、この強さ。地元出身であること、責任感を持った生き方をしていたこと。耐えていたんだと思います。

当時の僕は、太田先生のその言葉を上司に伝えました。上司は、「神戸くん、先生はこの状況でもそう言っているんだ。それを記事にすべきだ」と、上司自ら話を聞きに行き、「太田さんが、今こそ防災工事をと訴えた」という記事を書いたのです。

僕は、自分ではもう書き切れないくらいに疲れていました。その時に太田先生は、尻を叩いてくれたんですね。これは、一生忘れないです。太田先生が言ったことによって、島原市民は励まされ(僕も島原市民でしたが)、助けられ、何とか災害を乗り越えられたんだな、と今回お通夜に行って改めて思いました。

本当に立派な方でした。太田先生と会えたことが、島原市民であった僕にとっても、記者としての僕にとっても、非常に大きなことでした。本当にありがとうございました。

◎神戸金史(かんべ・かねぶみ)

1967年生まれ。毎日新聞入社直後に雲仙噴火災害に遭遇。東京社会部での勤務後、RKBに転職。やまゆり園事件やヘイトスピーチを題材にしたドキュメンタリー映画『リリアンの揺りかご』(2024年)は各種プラットホームでレンタル視聴可。ドキュメンタリーの最新作『一緒に住んだら、もう家族~「子どもの村」の一軒家~』(2025年、ラジオ)は、ポッドキャストで無料公開中。

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