Infoseek 楽天

国産飛行機の実力は?海軍”最強”戦闘機『紫電改』その歴史的価値~ライト兄弟から121年

南海放送NEWS 2024年8月17日 20時0分

「ライト兄弟から始まった飛行機の歴史の1つの段階の物証」。太平洋戦争末期、日本の技術の粋を集めて作られた”国産”戦闘機『紫電改』を調査した技術者の言葉だ。

この夏、四国の小さな博物館(『紫電改展示館』愛媛県愛南町)で、国内で唯一、見ることのできる日本海軍、最後で最強の戦闘機といわれる紫電改の、機体の劣化や腐食の現状調査が行われた。展示館の建て替えが2026年度に計画され、機体が移設に耐えられるかどうかを調べるためだ。

紫電改には今の航空機につながる、ある画期的なシステムが搭載されている。『自動空戦フラップ』だ。本来、離着陸などに使うフラップを空戦で自動操作することで旋回性能を高め、戦争末期の練度の低いパイロットの操縦技術を底上げした。「今の航空機の自動操縦のはしりといっていい」(調査スタッフ)。

紫電改は兵器であり、戦争の道具として使われた。そのため、海底から引き揚げられて約半世紀、戦争遺産として”平和の大切さ”を伝える役割が重視されてきた。その役割は大切だ。

ところが会見の場で、ある技術者が口にした言葉にハッとさせられた。「この飛行機に乗ってみたかった」。

とても素直な心情だと感じた。太平洋戦争末期の食うや食わずの生活の中、日本の技術者が苦心惨憺、開発した飛行機で空を飛んでみたい...。人間の「空を飛びたい」という夢を実現した飛行機としての紫電改には、どんな価値と魅力があるのだろうか。人間と飛行機という視点で紫電改を眺めてみたい。

【オピニオン室 三谷隆司】

当時の整備の雰囲気を汎用の足場で再現(調査スタッフの説明)

調査のための足場にもこだわりが・・・

調査は今年7月初旬、新明和工業株式会社(兵庫県)の技術スタッフら10人によって行われた。前身である川西航空機が太平洋戦争中、紫電改を製造したので、先輩たちの仕事を細部に渡って確認し、補修して後世に引き継ぐ仕事を引き受けたことになる。郷田雄志さん(飛行艇技術部)は会見の要所要所で「先人の遺産を引き継ぐ重要な仕事」という言葉を繰り返した。

紫電改の周りをぐるりと一周しながら調査内容を説明するのだが、いきなり「汎用の機材を使って足場を組みました。当時も恐らくこんな感じの整備用の足場だったと思います。当時の雰囲気は出てると思います」(郷田さん)。

「へ~、全く気付かなかった。整備には足場も大事なんだ。そこまでこだわるか...」。私の知らない世界に興味が湧いてきた。

よく見ると機体には無数のリベットが打たれている

万単位の手作業に技術レベルの高さ

日本で唯一、見ることのできる紫電改の実機は1978年、足摺宇和海国立公園の久良湾海底で偶然見つかり、引き揚げられた。半世紀近くが経過し、「骨組みの腐食が進み、外板が劣化している」(調査スタッフ)という。

時間の経過との闘いでもある修復、保存へ向けた調査の中で、当時の技術力の高さに驚いたと調査スタッフが目を輝かせた場面があった。

「リベットの打ち方、その手作業の一つひとつに当時の技術レベルの高さを感じます」「その作業の数は、もしかすると万(単位)いくかもしれない」(調査スタッフ)。

リベットといわれて最初、ピンとこなかったが、機体をよく見ると丸いボツボツがたくさんある。飛行機は気圧の変化など過酷な状況に長時間さらされるため、強度の高い接合方法が求められるそうだ。リベット接合は溶接よりも強く、ボルトのように緩みも出ないため飛行機には適しているという。説明によると、リベットは手作業で行われるが、絶妙な強さ(加減)で打たないと、接合される外板の方が薄く伸びてしまって、強度が失われるという。

「数ミリ単位の(細かさが要求される)手作業」(調査スタッフ)だ。

「先人が作った技術遺産を引き継ぎたい」航空機事業部の郷田雄志さん

紫電改はライト兄弟から始まった飛行機の歴史の1つの段階

あるベテラン調査スタッフに質問すると話が止まらなくなった。紫電改への愛情を感じた。

「自動空戦フラップ」について質問した時で、この技術が革新的なのは、日本のパイロットの実戦での経験とスキルを”自動化”した点にある。

ゼロ戦の熟練パイロットが本来、離着陸などに使うフラップを、空戦時に速度を落としながら旋回する際に使い、高い運動性能を発揮していた。この実戦から生まれたマニュアル的な操縦技術を自動化し、練度が低いパイロットとベテランとの差を埋めようとしたのが自動空戦フラップだ。

必死で仕組みを理解しようとしたが、どうやら微分とか物理の知識が必要のようで、私には理解不能だった。

ただ、「今の航空機の自動操縦のはしりといっていい」(ベテラン調査スタッフ)という言葉が心に残った。当時の開発者は敗色が濃厚になり、食うや食わずの生活を強いられる中、技術を進歩させる熱意を持ち続けていたのだ。

(展示館の自動空戦フラップの説明文では「水銀とチェックボールによる液体圧力に電位差を微分した値を計測、駆動系に情報電位を搬送するシステム」とある)

ちなみに「紫電改のベテランパイロットの中には、自動空戦フラップを意図的に使わなかった隊員もいたらしい。スイッチでオンオフの切り替えが可能だった」(展示館関係者)という。

実戦に配備された当時の紫電改~展示館提供

飛行機は戦後の日本で難しい立場にあった。GHQの占領下に入った日本では、あらゆる航空機研究が禁止されたからだ。

現在、蒸気機関車や貨物船などの乗り物は、日本の近代化を支えた文化遺産として国の重要文化財に指定されているものもある。しかし、飛行機では国が指定した例はない。

郷田雄志さんは今回の調査について「オリジナルを残すために強度を維持し、技術的な遺産を後世に引き継ぎたい」と話し、”文化財としての価値はどこにあるのか?”という私の質問には「ライト兄弟から始まった飛行機の歴史の1つの段階の物証。当時のままで残っているところに意味がある」と応えた。

そして、ベテラン調査スタッフが口にした言葉にハッとさせられた。

「この飛行機に乗ってみたかった」。とても素直な心情だと感じた。

日本は歴史的には世界有数の航空機生産国だった。今回の調査を担当した新明和工業の前身、川西航空機の原点は1918年(大正7年)創立の日本で初めての航空機会社、日本飛行機製作所までさかのぼる。『日本の航空機工業は軍需産業として国家の強化育成策の基で発展し、最盛期には約100万人の従業員を擁して年産2万5,000機を生産した世界有数の産業だった』(一般社団法人 日本の航空機工業より)

新明和工業は現在、紫電改などを製造した経験と技術を受け継ぎ、世界唯一の性能を持つといわれる救難飛行艇「US-2」を開発、海上自衛隊で運用されている。

1979年、引き揚げられる国内に唯一残る紫電改の実機~展示館提供

新しい展示館で紫電改は何を伝え続けるか

2026年度に完成を目指す新しい展示館は、紫電改が引き揚げられた久良湾を一望するリアス式海岸の美しい景色の中に建設を予定している。

日本で唯一、見ることのできる紫電改は、平和の大切さを伝える役割を受け継ぎながら、「ライト兄弟から始まった飛行機の歴史の1つの段階の物証」として存在し続ける。

今回の調査結果をもとに、具体的な補修の検討や移設用の架台の設計などが行われるが、出来る限り、引き揚げ当時の「オリジナルを残す」(郷田さん)方針だ。何を感じるか。この夏、是非、無言の紫電改と1対1で対話してみて欲しい。

※紫電改は現在も紫電改展示館(愛媛県愛南町御荘平城5688番地)で見ることができる

新しい展示館の内観イメージ「遠藤克彦建築研究所」提供

この記事の関連ニュース