昭和60年に発生した暴力団「山口組」の竹中正久・4代目組長射殺事件に関与したとして、殺人容疑で指名手配された男が今年9月、長崎県警に名誉毀損(きそん)容疑で逮捕された。事件は公訴時効が成立しているが、山口組トップの射殺や、それを機に激化した山口組の内紛「山一抗争」を知る関係者の間には衝撃が走った。抗争に巻き込まれ、生死の境をさまよった兵庫県警の元捜査員もその一人。当時の記憶をたどり、今も繰り返される抗争事件への危機感をあらわにした。
「制服を着た警察官に銃を向けないなどと甘くみてはいけない」
暴力団は一般市民や警察を巻き込まない-。そんなまことしやかな風説に、元兵庫県警幹部の岡田智博さん(60)は自身の体験を踏まえ、警鐘を鳴らす。
岡田さんが県警に入ったのは、竹中組長が射殺された翌年の昭和61年。射殺事件をきっかけに、山口組と同組を離脱した一和会との抗争が激しさを増し、各地で発砲事件が相次いでいた頃だ。
岡田さんが配属された東灘署管内には一和会の山本広会長宅があり、署員らが警備にあたっていた。当初は機動隊のバスが置かれ、10人ほどで組まれていた態勢は徐々に縮小。63年5月には2人態勢となっていた。
手に燃えるような激痛
同月14日未明、岡田さんはパトロール中に会長宅付近で警備中の署員と合流。パトカーに乗り込んで業務報告をしていると、後方から足音が聞こえてきた。
「お前らどこ行くんや」。後部座席の先輩巡査が呼び止めると、男が車窓の隙間から釣竿のようなものを差し入れてきた。次の瞬間、体が吹き飛ぶような衝撃を受け、手に燃えるような激痛が走った。「殺されてしまう」。動転して拳銃を抜くこともできず、無線で応援を要請する先輩の声が遠くで聞こえたところで記憶は途切れた。
右耳付近と右手などを計3発撃たれた岡田さん。医師からは「1センチずれていたら死んでいた」と告げられた。車内にいた先輩らも背中や腹部を撃たれ、生死の境をさまよったという。
数カ月の治療とリハビリの末に復帰すると、署長からは警察職員への転向を勧められたが、「犯人を取り逃した」との責任感から固辞した。当時24歳。30歳で家業を継ぐという話もあったが、市民の安全を守り抜くと覚悟を決め、洲本署長などを歴任して今年3月に退職するまで警察官人生を全うした。
岡田さんらを襲った山口組系幹部はその後、逮捕されたが、岡田さんは「『抗争は終結する』という噂が流れ、気が緩んでいた。親分を殺された組員が簡単に終わらせるわけないのに」と悔やむ。山一抗争などを背景に平成4年、暴力団対策法が施行。暴力団組員は急減しているが、市民が危険にさらされる状況に変わりはない。
山口組から神戸山口組が分裂して来年で10年。この間、発砲を含む襲撃事件が相次ぎ、両組織は特定抗争指定暴力団となった。岡田さんは「山一抗争当時の雰囲気と似ている」と危機感をあらわにし、「警察は本気で暴力団を壊滅しなければいけない」と語気を強めた。
血で血を洗う全面戦争
一般市民や警察官を巻き込み、死傷者が計約100人に上った「山一抗争」。4年9カ月にわたった史上最悪といわれる暴力団抗争は、血で血を洗う全面戦争の様相を呈し、市民らの暴力団排除の機運が高まる大きなきっかけともなった。
発端は、昭和56年に死亡した田岡一雄・山口組3代目組長の跡目争い。当時の竹中正久若頭と山本広・組長代行を推す勢力が対立。竹中若頭が4代目に就任すると、山本代行派は脱退し、新組織「一和会」を結成した。
当初は一和会が数で山口組を上回っていたが、ほどなくして復帰する組員が相次いだことなどで、逆転した。「一和会は長く持たないだろうという見方が強かった」。元山口組系組長で、現在はNPO法人代表として元暴力団員の更生などを支援する竹垣悟氏はこう振り返り、こうした油断こそが暴力団史を揺るがす大事件の一因になったと指摘する。
60年1月26日夜、大阪府吹田市内のマンションで、竹中組長ら山口組幹部3人が一和会系組員らに銃撃され、組長は死亡。これを機に抗争は激化し、同年の暴力団の対立抗争による事件は前年比約2・7倍の約300件となり、うち8割以上で銃器が使用された。
平成元年3月の一和会解散をもって抗争は終結。竹中組長射殺事件は実行犯らが逮捕されたが、犯行を指示したなどとして殺人容疑で指名手配された一和会系幹部の男は逃走したまま、12年に公訴時効が成立した。
男は今年9月、射殺事件とは無関係の名誉毀損容疑で長崎県警に逮捕された。死亡説も流れていただけに、捜査関係者の間に「まだ生きていたのか」などと驚きが広がったが、時効によって殺人罪には問われない見通しだ。