最愛の妻と4人の子供、そして家族の夢まで…。すべてを失ったあの日から1年あまりの時が流れた。昨年1月の能登半島地震で、家族と親族計10人を亡くした金沢市の寺本直之さん(53)。茫然(ぼうぜん)自失の日々が続き、取材は断ってきたが、1年を機に家族のことを語る決意をした。「生きた証しを伝えていかなければ」。芽生えた気持ちを大切に、1人残された人生を歩んでいく。
昨年の元日、勤務先である同市内の介護施設にいた寺本さん。年末年始は石川県穴水町にある妻の実家で過ごすのが恒例で、仕事を終えたら向かう予定だった。
午後4時10分に地震が発生。家族と連絡が取れず、町役場や警察に問い合わせても手がかりはつかめない。道路が寸断されて現地にもいけず、「きっと避難している」と自らに言い聞かせた。
義母が亡くなったようだとの知らせを受け、何とか穴水町にたどり着いたのは5日のこと。妻の実家は、裏山から崩れた土砂に埋まっていた。
妻の弘美さん=当時(53)、理学療法士で長男の琉聖(りゅうせい)さん=同(24)、東京都内の日本料理店で修業中だった次男の駿希(しゅんき)さん=同(21)、スーパーに勤める三男の京弥(きょうや)さん=同(19)、中学3年の長女、美緒寧(みおね)さん=同(15)。家族5人に義父母、義弟家族の計10人が巻き込まれた。
次々と運び出される遺体。地震の発生が少しでもずれていれば、自分も一緒にいたかもしれない。しかし、自分だけを残してみんな逝ってしまった。そんな現実を受け入れられなかった。
遺体の身元確認を終え、8日に金沢の自宅に戻ると涙がとめどなくあふれた。家族の洋服や荷物は出かけたときのままなのに、帰って来ることはない。「もうここには住めない」と自分の実家で暮らした。葬儀を終え、死後の手続きに追われるうちに日々が過ぎた。春に職場に復帰し、元の自宅は売却した。
家族には夢があった。いつか駿希さんが金沢に戻って店を開き、みんなで支えようと語り合っていた。弘美さんはそのときに備え、介護福祉士の仕事のかたわら友人の料理店を手伝っていた。
だが、かなうことはなくなった。1人残され、自室の出窓に並ぶ5人の遺影に語りかけるのが日課となった。返事はないが、みんながそばにいるような気がした。徐々に気持ちが和らぐと同時に、家族のありがたみを再認識した。
昨年末の納骨を機に、被災体験を語ることを決めた。楽しかった日々や明るい未来。何もかもが一瞬で奪われた。今生きていることは当たり前ではないと感じてもらい、誰かの命を守ることにつながれば-。1人で伝えていく自分を「天国から見守っていてほしい」。寺本さんはそう願っている。(吉田智香)