あのときのことは今でも鮮明に覚えています。平成7年1月17日の早朝。僕は午前6時半から始まる放送に備え、当時神戸市須磨区にあったラジオ関西の打ち合わせ部屋で、新聞各紙に目を通していました。すると突然、大きな揺れが。四つん這いになっても倒れそうなほどの激震でした。
物が散乱し、壁は崩れ、床は破れて下の階が見えている。幸い、通信社のファクスは生きていて、大きな地震が起きたことはわかりましたが、神戸だけ、震度が空欄になっている。何か神戸でとんでもないことが起きたらしい、ということだけはわかりました。
《当時、ラジオパーソナリティーとして「ま~るい地球と…谷五郎モーニング」という朝の番組を担当していた》
いったん中断した放送が再開でき、僕は通信社から送られてくる情報をひたすら読み上げました。やがて街へ出ていたラジオカーと中継がつながり、スタッフは火災が発生している長田区の様子をリポートし始めました。
スタッフは被災者の男性に声をかけた。男性の家は全焼していて、家族の安否を尋ねると、「息子が1人、もう死んでると思う」と…。息子さんは倒壊した建物の下敷きになり、男性は何とか助け出そうとしたのですが火が迫ってきて、息子さんは「おやじ、逃げてくれ」と叫んだそうです。
やりとりを聞いて絶句しました。息子を炎の中に残し、見殺しにせざるをえなかった男性の無念はいかばかりか…。
《このやりとりを収めた放送音源はラジオ関西に保存されている》
ラジオ関西では、その後も震災に関する情報を発信し続け、僕自身も現場リポートに出かけました。ある時期から番組のテーマを「ボランティア」に絞り、ボランティア村などに足を運んで、その活動の様子を取材しました。
ボランティア関連の取材で忘れられないのは、役所の方が「勝手なことをされては困る」と話していたことです。すべてを管理したかったんでしょうね。
でも、ボランティアとは、困った人たちの手助けをしたいという人たちがそれぞれの自由意思で被災地に入り、行政の支援の行き届かないところを埋めるものです。当時はまだ災害地ボランティアという概念がなかったので仕方のない面もありますが、行政がボランティアを管理したがる傾向は今でも残っているように思えます。
《昨年の元日に起きた能登半島地震では、発生当初、倒壊家屋が多く残っているため危険性が高いとして、被災地の自治体がボランティアに向けて「支援のお気持ちは大変ありがたいが、現段階ではお控えいただきたい」と呼びかけた》
災害支援は、行政なら行政、ボランティアならボランティアでそれぞれに役割があります。ラジオというメディアに関わっている僕にできることは情報発信です。
30年前の震災時、僕はパーソナリティーになってからまだ4年目でした。ラジオで情報を発信することで、リスナーから貴重な情報を提供していただき、それをまた発信するという経験を通じて、ラジオというのはリスナーとの信頼関係で成り立っているメディアなんだ、ということを明確に認識しました。
当時の思いを胸に、これまでラジオの仕事に責任と誇りを持って取り組んできましたが、それは今後も変わることはありません。(聞き手 古野英明)
たに・ごろう 昭和28年、兵庫県高砂市生まれ。神戸大卒業後、農協勤務を経て、平成3年、ラジオパーソナリティに。現在はラジオ関西で「谷五郎の笑って暮らそう」などの番組を持っている。趣味はブルーグラス、昭和プロレス、昭和歌謡。特技はパン作り。