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「安全と安心」か「自由と権利」か 倫理学の研究者が避難対策の専門家に問う 防災の日特集

産経ニュース 2024年9月5日 12時0分

南海トラフ巨大地震の想定震源域で8月8日、日向灘地震が発生したことを受けて初めて発表された南海トラフ地震の臨時情報。政府は「巨大地震に注意」としながらも「普段どおりの生活を」と呼びかけたが、夏休みの宿泊客のキャンセルが相次ぐなど混乱がみられた。「安全と安心」か、「自由と権利」か。病気や犯罪、災害などの予防について倫理学の観点から研究している京都大院の児玉聡教授が、避難対策の専門家で中央防災会議委員の東京大院の片田敏孝特任教授と対談した。(聞き手 北村理)

児玉 現代は、病気や犯罪、災害などで予防が重視されている。リスクを予測し回避する予防にはコストがかかる。災害で予測が外れると、経済活動に支障が起きたりし社会的な影響も大きい。そこに生じる責任をどう考えるべきか。

片田 防災に責任論はなじまない。40年近く国内外の災害現場に足を運んだが、過去と同じパターンの災害はなく、人間が考える想定を大きく超えていた。自然災害は人智が及ばないものだ。温暖化による気候変動が進み、その傾向は強まっている。

児玉 気象庁などがだす防災情報は年々進歩し、より精緻な予測が期待できるようにも思える。

片田 ひと昔前の津波警報は東北地方沿岸部といった地域単位の発表だったが、現在は都道府県単位だ。最近話題になる線状降水帯もしかりだ。しかし、国民が安全に避難するには災害が起きる時間と場所の特定が必要だ。いくら情報技術が進んでも、そんなことは不可能だ。

児玉 災害のたびに問題視されるのがハザードマップ(被害想定図)。それを住民が事前に知っていたのかどうかということが住民の責任のようにいわれる。片田さんはハザードマップについて「想定を信じるな」と主張している。

片田 ハザードマップは、あるひとつのシナリオのもとに、その地域に起こる地震被害、津波被害、浸水被害などの傾向を示すだけだ。個々の住民の家の被害予測ではない。

想定とらわれぬ避難徹底を

児玉 それではハザードマップはどう利用されるべきものか。

片田 私が東日本大震災の8年前から防災教育を行った岩手県釜石市の小中学校では、児童生徒がハザードマップで自分たちの生活圏で起こりうる被害の傾向を理解し安全な避難路を調べ避難マップをつくった。加えて津波の被災記録である碑を調べるなど過去の地震や科学的な津波、地震の知識も学んだ。これらの学びから津波避難3原則「想定にとらわれるな」「最善を尽くせ」「率先避難者たれ」を導き出し、子供たちに徹底させた。その結果、実際の津波はハザードマップの想定を大きく超えたが、地震と同時に子供たちは避難行動を開始し、ほぼ全員が自主的に避難し無事だった。その背景には周到な事前準備があった。それがあれば小学1年生でも適切な行動をとれるということだ。

児玉 近年、政府の意識調査では年々「自助」の意識が浸透しているようにみえるが、好ましいことではないか。

片田 平成30年西日本豪雨ではハザードマップ通り災害が起きた地区で多くの高齢者が亡くなった。今後高齢化が進む中でこうした事態はエスカレートする。西日本豪雨について議論した中央防災会議で「行政は万能ではない。皆さんの命を行政に委ねないでください」とするメッセージを国民に発した。阪神大震災以降の30年間で幾多の災害を経験してもなお、こうしたメッセージが必要とされたのは、防災情報や堤防などの整備で自然災害を制御しようという行政とそれを甘受する国民という構図が改まらないからだ。

児玉 災害が頻発し年中追悼式がある印象だ。必ず「風化防止」が叫ばれるが、忘れないことだけでよいのだろうか。

片田 防災における風化の意味は「徳によって教化すること」。教訓が社会に定着し語るに及ばなくなることだ。自分たちの自然に対する意識への反省、自分たちの地域で防災ができているか具体的に点検する機会にすべきだろう

切り分けられない自助、公助、共助

児玉 災害対策基本法では自助、地域共助、公助の責務が記されている。

片田 住民、地域社会、公的機関の役割は災害の形態や災害が起こる場所によって異なる。それに従って個別具体的に役割を明確にしないと実効性がない。例えば東京都内の水害対策では、江東5区は海抜ゼロからマイナスの低地。堤防が切れると水没する。250万人の住民は事前に5区から離れ広域避難するしか助かる方法はない。その状況をつくるために気象庁などの情報とは別に、災害が想定される3日前から5区の区長が合同検討会を開き、浸水被害が想定される2日前に住民に自主的な広域避難を誘導する仕組みを検討している。広域避難に必要な他自治体との調整を都や周囲の県、国が行うことになっている。

児玉 もし避難誘導して災害が起こらなかった場合、行政の責任はどう考えるべきか。

片田 もし5区が水没したら多くの人が犠牲になるのは明白だ。災害が起きなければ、住民は良かったと納得するしかない。大災害の場合、自助、共助、公助の責任は切り分けられるものではなく運命共同体として混然一体とならざるを得ない。社会全体が人智の及ばない自然災害に対しそれでも「命を守る」という同じ目的に向かわないと事態の打開はできない。

児玉 そうした社会をあげた防災の取り組みができれば良きコミュニティーづくりが実現される。

片田 「命を守る」という目的に社会全体が取り組むということは、誰かが誰かを助ける社会ではなく、誰もが主体性を持ち、「助かる社会」を目指すということだ。

児玉 助かる社会づくりは防犯や感染症対策など公衆衛生にも有効だ。そうした分野横断的な研究・人材育成機関として京都大は災害多発国として世界をリードする「ヘルスセキュリティセンター」を設ける。そうした取り組みが始まっている。

南海トラフ地震臨時情報 南海トラフ沿いで異常な現象が観測された場合に発表される。政府の評価検討会が開催され、現象がマグニチュード(M)7以上などの場合は「巨大地震注意」(1週間程度をめどに必要に応じ自主避難)、M8以上の場合はさらに切迫性の高い「巨大地震警戒」(1週間程度をめどに津波の危険性が高い地域は事前避難)が呼びかけられる。8月8日の日向灘地震は南海トラフ巨大地震の想定震源域内でありM7・1であったことなどから「巨大地震注意」となった。臨時情報の発表は令和元年の運用開始以降初めて。

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