阪神大震災が発生した平成7年1月17日、被災地の倒壊寸前の病院で生まれ、「奇跡の子」と呼ばれた。だが、メディアで何度取り上げられても、語るべき震災の記憶はない。苦悩の日々からやがて、家族や多くの人たちの懸命の助けで自分が無事に生まれたことを知り、「自分だからこそ、伝えられることがある」と考えるようになった。震災の語り部として一歩を踏み出した兵庫県尼崎市の中村翼さんは今月17日、30歳になる。
崩れそうな病院でお産
出産を間近にひかえた母・ひづるさん(55)と父・威志さん(56)は当時、神戸市兵庫区のマンションに住んでいた。
1月17日午前5時46分。夫婦は突きあげるような強い揺れに襲われた。威志さんはとっさに2つの命を守ろうとひづるさんの上に覆いかぶさった。「何も考えず、とっさの行動だった」。後に、父は当時の心境をこう話した。
2人にけがはなかったが、部屋は散乱しており、近くの小学校へ避難。到着したとたん、ひづるさんは破水した。威志さんが自宅へ車を取りに戻っている間、パジャマ姿で震えていたひづるさんを、見知らぬ女性が「乗っとき」と暖かい車内へ招き入れてくれた。
威志さんが戻り、車で10分ほどの距離にある病院へ向かったが、倒壊した建物や渋滞で車は動かない。約3時間後、ようやくたどりつくと、その病院は外壁が崩れ、今にも倒壊しそうなほど損傷が激しく、電気や水道も止まっていた。
ひづるさんの陣痛が激しくなった。別の病院へ行く余裕はない。余震が続く中、威志さんと看護師が懐中電灯で照らしながらのお産が始まる。地震発生から約12時間後の午後6時21分、翼さんが産声をあげた。
それから間もなく、病院に対し避難勧告が出された。間一髪だった。夫婦と生まれたばかりの翼さんは神戸市北区のひづるさんの姉宅へ身を寄せた。
威志さんは地震発生から出産、北区への避難に至るまで、常に冷静だったという。その理由について、威志さんは後に「自分が2人を守らないといけないという使命感。とにかく必死だった」と語った。
「奇跡の子」と呼ばれ
翼さんは3歳のころからテレビの取材を多く受け、震災の日に生まれた「奇跡の子」として紹介された。ただ、震災の記憶などあるはずがなく、当時を振り返る両親の横で座っていただけ。「あ、カメラに撮られている、ぐらいの感覚だった」。小学5年のとき、父の転勤で兵庫県を離れ、中学3年になって再び神戸に戻ってくると、再度メディアで取り上げられた。
そんなとき、同級生との何げない会話で、「震災で家族を失った」と聞いた。自分の生まれた日に多くの命が失われたという現実と向き合い、「震災を知らない自分が震災への思いを聞かれ、メディアで取り上げられる現状に悩んだ」。同時に「この日に生まれたからこそ何かできることはないのか」という使命感のような感情も芽生え、葛藤を続けた。
自分が生まれたときのことを知りたい-。翼さんは神戸学院大の社会防災学科に進学した。当時の映像を見たときには、轟音(ごうおん)とともに崩れる街の姿に言葉が出なかった。阪神大震災がいかに甚大な災害だったのかを少しずつ知り、大学卒業を前に、自分が生まれた経緯を両親から初めて詳しく聞いた。
「奇跡が重なり、多くの人の支えがあり、自分はこの日に生まれることができたんだ」。自分にできることが見えてきた。
震災の記憶なくても
現在は会社勤めをしながら震災の経験を伝える団体「語り部KOBE1995」に参加し、震災の記憶を継承する活動に取り組んでいる。「小学生から『翼さんのお父さんみたいになりたい』『お母さんに話したい』という感想を聞くと励みになる」と翼さん。
昨年、絵画などを通じて震災の記憶を継承する「アトリエ太陽の子」の子供らが翼さんの話からイメージしたことを絵に描き、それらをもとに絵本「ぼくのたんじょうび」が制作された。今後、この絵本を子供たちに読み聞かせる活動もしていくつもりだ。
自分の誕生日でもある「1・17」は「悲しい日」なのではないかとの思いが消えなかったが、今の翼さんにとっては「命の尊さや助け合いの必要性を感じる特別な日」だ。「震災を知らなくても、自分の存在を通して震災を伝えていける。やりがいを感じています」。この日に生まれてよかった-。震災から30年を経て、ようやくそんな心境になった。(西浦健登)