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言葉でつなぐ親子バトン、復興奔走の父死去で「風化防ぐ」 ミニFM局開設の近兼拓史さん

産経ニュース 2025年1月16日 11時59分

阪神大震災の発生から17日で30年となる。神戸市内の自宅や実家が被災し、祖母らを失った映画監督の近兼拓史さん(62)は、災害に備えてミニFM局を開設するなど被災地のために奔走したが、これまでは震災の体験を語ってこなかった。だが、地元の復興に尽くした父が能登半島地震が発生した昨年の元日、入院先の病院で87歳で亡くなったのを機に、心境が変化。震災の記憶が風化するのを防ぐため、自らの言葉で語り継ぐ決意を固めた。

「シェーカーの中にほうり込まれたよう。コピー機が部屋の壁にガンガンぶつかっていた」。平成7年1月17日早朝、神戸市長田区のマンション10階にあった近兼さんの自宅は激しい揺れに見舞われた。建物がゆがんで動かなかったドアをやっとのことで開けると、近隣で発生した火災の炎が間近に迫っていた。自身は負傷したが、妻と娘2人は無事。だが、同じ区内に住んでいた祖母や伯父は帰らぬ人となった。

それでも、「自分よりつらい経験をした人は数多くいる」との思いから、震災の記憶を語るのではなく被災地の復興のために奮闘した。その一つが、兵庫県西宮市でのミニFM局の開設だ。

西宮に着目したのは、大阪と神戸の中間に位置し、大規模災害時には情報の空白地帯になる恐れがあると考えたため。雑誌記者として活躍し、長崎県の雲仙普賢岳の火砕流災害や東南アジアの風水害を取材する中で、「いざというときにはラジオだ」と痛感。震災の前年から、開設に向けて取り組んでいた。

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震災から約半年後の7年7月、放送免許が必要ないミニFM局を開設。私財を投じて機材を調達し、スタートにこぎつけた。スペイン語で「光」を意味する「ラルース」と命名。被災者が避難生活について語るなど地域に根ざしたスタイルが親しまれた。10年には民間と市の出資によるコミュニティーFM「さくらFM」となった。

被災地への貢献は「生き残ったことへの罪悪感のようなものだった」と振り返る近兼さん。被災体験を積極的に語ってこなかったのは、父の存在があったからだ。

父は町内会長などを務め、復興に向けた地域の世話役として力を尽くした。震災後の区画整理に伴い所有する土地が減る人たちを「みんな我慢している」「生きているだけで良かったじゃないか」と説得。自らも苦労の末に住まいを再建した。

そんな姿を見て、「被災体験を語るべきなのはおやじで、自分ではない」と考えてきた。しかし、くしくも能登半島地震の発生当日に父を亡くしたことで、「後を託されたというか、『後はよろしく頼む』と言われたような気がした」

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映画監督だけでなく兵庫県丹波市で映画館を運営するなど多彩な活動を展開する近兼さん。今は西宮市に拠点を置く。

震災を経験した一人として「震災を語るのに自分が適任だと思っているわけではないが、何もなかったことにもしたくない」と記憶の風化を強く懸念する。「悲しい思いをする人がもう現れないよう、教訓を伝えていきたい」。あの日から30年を経て、ようやくそんな思いにたどり着いた。(藤崎真生、写真も)

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