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つなぎ続けたい天災の記憶 先人たちが伝承してきた知恵を軽視してはならない モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら(183)

産経ニュース 2024年8月17日 11時0分

感受性が違う和歌山県白浜町

パリ五輪開催中の8日、南海トラフ地震想定震源域の西端にあたる日向灘を震源とするマグニチュード7・1の地震が発生した。気象庁は、南海トラフ沿いの地震に関する評価検討会を臨時に開催し、想定震源域では大規模地震の発生可能性が平常時に比べて相対的に高まっていると考えられるとして、南海トラフ地震臨時情報(巨大地震注意)を発表した。

政府の地震調査委員会は、南海トラフを震源とするマグニチュード8~9級の巨大地震が30年以内に「70~80%」の確率で発生すると予測している。ひとたび発生すると、静岡県から宮崎県にかけての一部では震度7、隣接する周辺の広い地域では震度6強から6弱の強い揺れが、また関東地方から九州地方にかけての太平洋沿岸の広い地域に10メートルを超える大津波の襲来が想定されるという。

気象庁の発表にすぐさま反応したのが、和歌山県白浜町だった。白良浜(しららはま)海水浴場など町内4カ所の海水浴場を、稼ぎ時であるにもかかわらず、発表の翌日から1週間ほど閉鎖する決断をしたのだ。さすが物語「稲むらの火」の元になった史実のあった和歌山である。感受性が違う。余計なお世話かもしれないが、昭和12年から10年間、小学校の国語教科書に掲載された物語の概要を紹介しておこう。

1854年に起きた安政南海地震の直後、紀伊国広村(現在の和歌山県広川町)の高台に暮らす庄屋の五兵衛は、海の変化に気付く。津波が襲来すると直感した彼は、村人に危険を知らせようと刈り取ったばかりの稲の束(稲むら)に次々と火を付ける。火事だと勘違いした村人たちが消火のため高台に上ってくるのを期待したのだ。果たしてもくろみは成功し、村人全員が高台に上ったあと、村は津波にのみ込まれる…。

この物語には後日談がある。五兵衛のモデルになった濱口梧陵は、将来再び襲来するであろう津波に備えるため、私財を投じて長さ約600メートル、基底の幅約20メートル、高さ約5メートルの堤防を築造したのだ。この事業で彼は、津波の被害で暮らしが立ち行かなくなっていた村人たちを日払いで雇い、工事に従事させたという。こうしてできた堤防は、昭和21年の昭和南海地震で起きた津波から広川町の中心部を守った。

命を守るため歴史に学べ

私が暮らす外房の町、千葉県御宿町もたびたび津波に襲われている。南海トラフ地震が起きれば、ここにも津波が押し寄せると想定されている。

浜の近くには「元禄地震の再来想定津波高」と記された十字架のような標識が立てられ、町の中心部の共同墓地には千人塚供養塔がある。

町教育委員会の由緒書によれば、1601年から1642年の間に御宿は5回も大地震津波に襲われ、犠牲者の供養と災害の絶無を祈願して1646年、袴(はかま)山(現在の浅間(せんげん)山)に供養塔が建立された。ところが1655年、1677年、1703年にも巨大地震津波に襲われる。そこで犠牲者を合葬した場所に袴山の供養塔を移し、古い犠牲者と合わせて供養することにしたという。ちなみに1703年の地震、すなわち元禄地震のマグニチュードは8・2、御宿を襲った津波の高さは8メートルと推測される。

海水浴客とサーファーでにぎわう浜を歩き、千人塚供養塔に手を合わせながら思った。戦争や原爆、公害の記憶の継承に比べ、地震や津波といった天災の記憶の継承はひどく軽視されてはいないか、と。

寺田寅彦の言葉「天災は忘れた頃に来る」を持ち出すまでもなく、地震や津波はいつか必ず襲ってくる。いかに科学技術が発達しようと、人間が自然の脅威に太刀打ちできるとは思えない。だからこそ、科学技術が未発達の時代に、先人たちが命を守るために伝承してきた知恵を、聖火のようにつなぎ続ける必要がある。

特攻で散華した青年の真実を知るために高校生は修学旅行で知覧へ行くべきだと私は思っている。それと同じレベルで、小中学生には自分たちが暮らす地域に伝わる天災の記憶や記録、史跡と向き合う学習の機会をもっと用意すべきではないか。「歴史に学ぶ」とはそういうことだろう。

被災を教訓に溺死者は激減

御宿と津波の歴史を調べているうちに興味深い論文に出くわした。「津波工学研究報告第32号」(平成27年)に掲載されている「延宝5年(1677)房総沖地震津波の経験は元禄16年(1703)関東地震の津波死者を減らすのに役立ったか?」だ。

著者は元東京大学地震研究所准教授の都司嘉宣(つじよしのぶ)さんである。都司さんの問題意識は、房総半島に暮らす人々にとって延宝地震津波の体験が、その26年後の元禄地震津波のときに役に立ったのか、というものだ。

都司さんが、評価の対象としたのが集落ごとの流失家屋1軒当たりの溺死者数だ。そこで延宝地震の記述がある著者不詳の編年史「玉露叢(ぎょくろそう)」、元禄地震の公的記録である柳沢吉保による「樂只堂年録(らくしどうねんろく)」、各地に残された古文書、古地図を読み解きながら、集落ごとの流失家屋数と溺死者数を割り出してゆく。

ここから先は外房の地理に不案内な方は地図を広げて読んでいただきたい。

結論から言えば、延宝地震津波で甚大な被害を受けた鴨川シーワールドで知られる鴨川市から東京五輪のサーフィン会場になった一宮町までの集落と、無事だった九十九里浜の集落の間には、元禄地震津波の被害に歴然とした差があった。

先の津波で被害を受けた集落の元禄地震津波による流失家屋1軒当たり溺死者数は次の通り。

磯村(現鴨川市)=0・02▽勝浦=0・06▽御宿=0・07▽大原(現いすみ市)=0・16▽東浪見(とらみ)(現一宮町)=0・16

26年前に津波被害を体験した人々は、家財を残して一目散に高台に避難したのだ。一方、九十九里浜の集落の数字はこうだ。

中里(現白子町)=3・5▽古所(現白子町)=3・12▽不動堂(現九十九里町)=1・67▽井之内(現山武市)2・19

まさに桁違いである。

それ以上に興味深いのが、元禄地震津波でほとんど死者の出なかった磯村に隣接する白渚(しらすか)で4・5、鴨川本村で1・95という大きな数字になっているところだ。地理的条件が功を奏したのだろう、両集落とも先の津波で被害を受けていなかった。ただ、磯村の被害について耳にし、目にすることは間違いなくあったはずだ。

都司さんは「延宝地震津波の直接被害は受けなかった隣接した場所の人々は、この事例(磯村の被災のこと)を自らの教訓とすることはなかった」と結論付けたうえで、こう問いかける。

「我々は、江戸時代に隣村の被災を教訓と出来なかった人々を『愚か』とすることは出来るであろうか?」(桑原聡)

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