「帰ろう山古志へ」
山あいの静かな村を歩くと、軒先にニシキゴイの水槽がずらりと並んでいた。地域の理容室は憩いの場だ。住民が入れ代わり立ち代わり訪れ、ソファに座り、談笑する。ここには確かに息づく人々の暮らしがある。
新潟県中部の旧山古志村(現長岡市)。平成16年10月23日に発生した中越地震では300カ所以上で地滑り、土砂崩れが発生した。道路は寸断され、14ある集落の全てが孤立状態となった。
日本有数の豪雪地帯。「このまま雪が降れば命を落とす」。発災から2日後、当時の村長は全村避難を決定する。約2200人の村民はヘリコプターで、隣接する長岡市へ逃れた。
当初、避難所に集まった村民の出自はばらばらだった。だが、およそ1週間後にはバスを巡回させ、避難所間で〝引っ越し〟を実施。14の集落単位で仕切り直した。
「住宅や生活基盤の復旧だけではなく、山古志村そのものを取り戻すことを目指していた」
当時、同村の企画課長として復興プランの策定に取り組み、地震翌年の長岡市との合併後は同市山古志支所長を務めた青木勝(74)はそう振り返る。
「帰ろう山古志へ」を合言葉に、非常時にあっても元の生活を意識し、仮設住宅付近に畑を作った。出張理容室や交番も設置し、コミュニティーの維持に心を配った。
「みんなで村ごと引っ越したという感覚。とても楽しい生活を送れた」。地区で理容室を営む星野サツ子(76)は全村避難の経験を笑顔で懐かしむ。
避難所やその後の仮設住宅の運営において、元の集落をベースとしたことは、限りある資源の配分の面でも大きかった。青木は「相談事項も個々人からではなく、区長からまとめて上がってくる。行政としても、やりやすかった」と話す。
特産のニシキゴイは、地震で養鯉池などの施設が壊滅的被害を受け、一時は存続も危ぶまれたが、「クール・ジャパン」を象徴する商品として海外で確固たる地位を確保。令和5年度の新潟県の輸出額は、33億円(前年比1・9%増)と過去最高を記録した。
仮設ではない仮設
昨年元日の能登半島地震で、石川県穴水町では住宅1600棟超が全半壊した。同町の下唐川地区では、被災家屋のすぐそばに従来型のプレハブの仮設住宅、そこから少し離れたところに、赤褐色の木材を基調とする一風変わった建物が並ぶ。
「石川モデル」と呼ばれる新たな仮設住宅で、プレハブより耐久性に優れた木造平屋建て。もっとも最大の特徴は、仮設の入居期限(原則2年間)を過ぎても、県から自治体に譲渡され、公営住宅に転用できる点にある。つまり仮設であって仮設でない、定住可能な住宅なのだ。
「入ってしまえば次の心配をせず暮らせる」。昨年7月下旬に入居した左部淳一(77)がメリットを強調する。「中は暖かいし、住み心地も良い」と満足げだ。
ただ石川モデルの建設用地は、将来的な権利関係の紛争を予防するため公有地であることが原則だ。同町では、左部が町に土地を譲渡したことで地区での建設が可能になった。
能登地域では人口減少に歯止めがかからない状況が続く。下唐川区長の加代等(67)はそうした現状を憂慮し「被災地の人口を減らさないためにも永住型の復興住宅を」と石川モデルの広がりに期待を寄せる。
能登地震で甚大な被害を受けた同県輪島市は被災者の孤独死を防ぐため「高齢者緊急通報システム」を導入した。人感センサーを搭載した機器と緊急通報機器がセットになっており、センサーが入居者の動きを一定時間検知しなかった場合、コールセンターに自動で通報される仕組みだ。同市内の仮設住宅に住む槌谷義雄(83)は「健康面での不安はないが、(設置したことで)心の余裕が生まれた」と話す。
同志社大教授(防災福祉)の立木茂雄(69)は石川県での一連の取り組みについて「過去の教訓を生かし、さまざまな対策が行われていることは評価できる」とする一方、「行政側、とりわけ市町に人手が足りておらず、さまざまな調整がうまくいっていない現状がある」と指摘。「復興のためには住居やコミュニティー形成も重要だが、社会的なインフラの復元も早急に行わなければならない。対応できる行政の職員を増やすなど、対策を図るべきだ」とした。
(敬称略)