《平成7年1月17日早朝、阪神大震災が発生した。当時25歳。入団3年目で、12月にオリックスの寮を出て神戸市北区のマンションで1人暮らし を始めたばかりだった》
「ドーン」という音とともに縦揺れがきて目が覚めました。部屋は10階で、マンションが折れるかと思いました。
寮に避難しようと思い、マイカーで向かうと街路樹や道路標識が倒れ、道路も陥没、隆起しており、これは無理だと引き返しました。
2日後にスーパーが開き、店の前で2時間、レジの前で2時間計4時間並んで果物の缶詰を8個だけ買いました。それ以上は気がとがめたんです。
《2月1日からオリックスの宮古島キャンプが始まった》
選手とその家族は全員無事でしたが、球団関係者の中で家族を亡くした方がいました。
宮古島ではベッドでゆっくり眠ることができるし、お風呂にも入れるし、おなかいっぱい食べることもできます。恵まれた環境の中で「神戸をほったらかしにして、ここにいていいのか」と罪悪感が消えませんでした。
キャンプの帰り、関西空港からフェリーでポートアイランドに着きました。バスで三宮の街を抜ける間、液状化の跡、傾いたビル、がれきの山など、現実とは思えない廃虚と化した風景が車窓から見えました。「神戸で試合ができるのか、やっていいものなのか」という思いにとらわれたのを覚えています。
《当時、オリックスの宮内義彦オーナーは「こんなときに逃げ出して何が市民球団だ」と、オープン戦も公式戦も予定通り本拠地で行うことを決めた》
オープン戦初日、本拠地のグリーンスタジアム神戸(神戸市須磨区、現・ほっともっとフィールド神戸)に1万人を超える観客が来てくれました。ほとんどが着の身着のままで例年と違う景色でした。「こんなときでも見にきてくれるんだ」と感激し、「やらなくては」とスイッチが入りました。生きるための明るい話題がほしい、生きる力を僕たちに求めている。それに応えたいという気持ちになりました。
《この年、オリックスは「がんばろう神戸」を合言葉にリーグ優勝、翌年は日本一を達成した》
「最強」といわれた西武に6月から15連勝して勢いに乗りました。そのころ不思議な力を感じていました。神戸の願い、思い、その強さが日ごとに増していくのがわかりました。それが僕たちを後押ししてくれる。神戸の人たちを喜ばせたいという思いだけでやってました。その感覚は長い野球人生で後にも先にもあのときしかありません。
《オリックスは毎年1月17日、球団社長、監督、コーチ、選手らがグラウンドに整列し、神戸方面に向かい黙禱(もくとう)する》
今も神戸とのつながりを感じます。神戸は僕にとって特別な場所です。
今、震災の痕跡を見つけるのは難しい。しかし30年たっても変わらないことがあります。住む場所で苦労されている方、亡くなった人を思い、心を痛めている方がいて、30年たっても取り戻せないものはある。風化させてはいけません。
震災、自然災害は必ず起きます。引退して3年間、野球解説者としてテレビやラジオに出演し、防災について専門家の話を聴く機会もありました。準備することだけは折に触れて伝えたい。被害を最小限にとどめることができる、強い街をつくらなければいけません。(聞き手 安東義隆)
たぐち・そう 昭和44年、兵庫県西宮市出身。平成4年、関学大からオリックスに入団、7、8年のリーグ連覇に貢献した。14年から米大リーグで活躍し、カージナルスなどでワールドシリーズ制覇も経験。オリックスに復帰後、24年に引退。オリックスの2軍監督、コーチを務め令和6年10月、退団した。