阪神大震災から10年後の平成17年10月、「心の復興」のシンボルとして開館した兵庫県立芸術文化センター(同県西宮市)。震災から30年となる1月17~19日には、同センターの芸術監督、佐渡裕さんの指揮でマーラーの交響曲第8番「千人の交響曲」が演奏される。オーディションで選ばれた約140人の合唱メンバーの一人、計倉(とくら)さとみさん(37)=大阪市中央区=は、小学校2年生のときに西宮市で被災した。
平成7年1月17日午前5時46分。
「ドン!という衝撃と音で目が覚めました」
マンションの部屋の中は真っ暗で、明かりを探す母親に、前日の夜になぜか枕元に置いたペンライトを渡した。
「明かりがついたことで、母は冷静になれたそうです」
外が明るくなるまで、兄と一つのふとんに入りじっとしていたが、眠れなかった。
幸い周囲の人はみんな無事で、半壊したマンションにそのまま暮らした。断水が解消されるまでの約1カ月間は支給される水で過ごし、飲料水はやかんに入れて少しずつ使っていた。生活用水が足りず、近くの川では洗濯をしている人がいたという。その川からマンションの住人が水を引き、広場にため池をつくってくれたことが頼もしかった。
学校は休校となっており、家でテレビを見ていると同級生が映った。
「西宮を離れると話していて、『あ、この子は転校するんだ』と思いました」
それを彼の口から直接聞くことはなかった。
再開した学校では一部の校舎が使えず、2年生は図書室をクラスごとにパーティションで仕切って授業を受けた。運動場には仮設の校舎ができた。給食はパンなどの個別に包装された物になり、炊き出しの温かいカレーが出されたときは、
「やっぱり、おいしいと思いました」
非常事態での生活が続いたが、
「まだ子供なので、そのまま受け入れていて、特に不安はなかった」
だが、23年の東日本大震災の報道に触れたとき、ストレスからか、一時的に耳が聞こえにくくなった。
「無意識に思い出すことがあったのかもしれません」
中学で大阪に引っ越したが、10年ほど前から、演奏会の合唱に参加するようになった。芸文センターの舞台にも立った。
「一度は離れた西宮とまたつながれたことがうれしい」
「千人の交響曲」は、マーラーが「偉大な歓喜と栄光をたたえている」とし、芸術監督の佐渡さんが「復興に尽力してきた人々のための演奏会にしたい」との思いで選んだものだ。
震災から30年がたつ。
「ボランティアの方々も含め、本当にいろんな人に支えられていたんだなと思う。今回の舞台では、今まで出会った人たちの顔が、自然と思い浮かんでくると思います」
芸術監督、佐渡裕さん「未来を見つめる場所に」
芸術文化センターの芸術監督を、開館当初から務めている指揮者の佐渡裕さん。開館20年、阪神大震災から30年を前に芸文センターで記者会見を開き、「祈りとともに、未来を見つめる場所になると考えてやってきた」と振り返った。
芸術監督の就任を当時の県知事、貝原俊民さんから打診されたのは、街の復興が進んできた震災6年後のことだった。心の復興を目指したいという言葉に、「一人の音楽家として街を託されたことに感激し、武者震いした」と振り返る。
大阪と京都が中心だった関西の芸術シーンは、芸文センターにより大きく変わった。開館に合わせて結成した兵庫芸術文化センター管弦楽団(PAC)の定期演奏会や、夏の恒例となったオペラ公演に加え、現代演劇に伝統芸能、J-POPのライブなど多彩な舞台が常に展開されている。
「成功した感覚がある」と佐渡さん。背景には、「心の復興を目指すというスタッフの強い志があった」と感じている。
30年たっても、震災で大切な人を失った心の痛みは消えない。一方で、震災を知らない人も増えていく。それでも「ここでの時間が癒やされるもの、励まされるものであることをテーマに、これからも劇場づくりを考えていく」と語った。(藤井沙織)