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「なんとかせんと」 入社4年目で経験 横倒しの阪神高速 復旧にかけた「熱量」を後輩に

産経ニュース 2025年1月10日 19時52分

平成7年1月17日に発生した阪神大震災では高速道路が横倒しになった映像が流れ、象徴的な光景として多くの人の記憶に刻まれた。交通インフラの要である高速道路を一刻も早く安全に再開する-。当時の「阪神高速道路公団(現・阪神高速道路)」の社員として復旧に携わり、現在も災害に強い道路の維持管理を担当する林田充弘・保全交通部長(57)は「必死に復旧に向かった当時の思いを今の社員に伝えたい」と力を込める。

「世界がめちゃめちゃに」

林田さんは中学高校時代を神戸市東灘区で過ごした。震災は阪神高速道路公団に入社して4年目、大阪市内の地盤改良工事に携わっていたときに発生した。大阪市港区の自宅アパートも激しく揺れ、飛び起きて外に出ると、近くの商店街の道路舗装のれんがが散乱し、積み上がっていた。

大阪市内の高速道路を点検した後、神戸に派遣された。東灘区で被害状況を確認し、変わってしまった街並みを見て呆然(ぼうぜん)とした。「まっすぐ建っているはずのビルの角度がすべて違って、どれが本当の垂直か分からなかった。世界がめちゃくちゃになっていた」

同年5月からは神戸線復旧建設部の設計課に配属され、被災した高速道路の復旧設計に携わった。大きな被害を受けた部分は作り直し、被害の小さな部分は補強する。同規模の地震が起こっても倒れないよう、新しい設計基準を適用した。

新旧技術を駆使して復旧

当時、まだ若手だった林田さん。新しい技術を積極的に取り入れた現場ではさまざまな新旧の技術が入り乱れ、分からないことも多かったが、できることは何でもやった。手掛けている復旧作業を分かりやすくまとめた資料も個人的に作った。帰宅が日付をまたぐことも多かった。

必死で取り組んだ原動力は、中高時代に慣れ親しんだ神戸の街への愛だった。「大好きな神戸の街がぼろぼろになってしまい、なんとかせんといかん。自分ができることがここにあるから、やらないといけないと思った」と振り返る。

担当していた区間の復旧が完了し、通行止めを解除したのは平成8年2月。待ちわびた車が列を作り、社員らが並んでその時を迎えた。車の運転手から「ありがとう」と言葉をかけられ、思わず涙ぐんだ。「ご迷惑をかけたのに、そう言ってくれるドライバーがいることがすごくうれしかった。土木屋をやっていてよかった」。今でも思い返すと、込み上げるものがあるという。

30年が経過「熱量の継承を」

その後、震災を経験した先輩らは次々と退職し、当時を知る社員は全体の約2割と少なくなった。だが、想定外の事態が起こった際の対応力の重要性は変わらないと林田さんは考える。

「何が起こっても、自分で考えて何かアクションしようという意思を持っていてほしい」。そうできる雰囲気を作るよう、コミュニケーションが闊達(かったつ)にできる職場環境を心がけている。

さらに継承したいのは、当時の先輩らの「熱量」だ。自分たちが造った高速道路が震災で大きな被害を受け、上司や先輩は復旧への並々ならぬ使命感に燃えていた。「あのとき見た先輩の熱量を自分ごととして感じてもらえるよう、今の社員に伝えたい」

新しい免振技術で早期復興

阪神高速道路(大阪市北区)によると、阪神大震災では、神戸市東灘区の3号神戸線が635メートルにわたって横倒しになったほか、4カ所で車が通行する部分が落橋した。5号湾岸線でも1カ所で落橋するなど激しく損傷し、16人が犠牲になった。

こうした被害を二度と繰り返さないよう、そして早急に復旧できるよう、同社が弁天高架橋(神戸市中央区)などに取り入れたのが、通常は橋桁と橋脚の間に設置する「支承(ししょう)」という部品を使った免震構造だ。支承をゴム製にした上で、設置部分を橋脚の下にすることで地震の揺れを緩衝し、車が通行する部分を守る。こうした構造の道路橋の設計は世界初の試みだった。

神戸線の復旧完了は当初、平成8年末の予定だったが前倒しし、同年9月末に完了した。同社はその後、被災した橋脚などを「震災資料保管庫」(同市東灘区)で公開し、当時の経験を伝え続けている。(前原彩希)

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