プロ野球阪神で遊撃手として活躍し、監督として球団史上初の日本一に導いた吉田義男さんが3日に亡くなった。伝統の球団史を誇る阪神で、初めて日本一監督になったのが吉田さんだった。
再びチームを率いることになった1985年、ランディ・バース、掛布雅之、岡田彰布ら個性派集団をまとめようと「全員一丸野球」をスローガンに掲げた。事あるごとに、その6文字を唱え続けた指揮官の熱意に応え、チーム力を結集した猛虎軍団は21年ぶりのリーグ制覇。さらに日本シリーズで西武を撃破し、悲願の日本一を達成。吉田さんは勝利監督インタビューで「チーム全員が一丸となって」と声を震わせた。
球団初の快挙は、いまも語り継がれている巨人戦での甲子園バックスクリーン3連発が象徴する強力打線が原動力となった。一方で、ネット裏では就任1年目の春季キャンプから徹底的に鍛えた一塁バース、二塁岡田、三塁掛布、遊撃平田勝男らの鉄壁の内野陣を評価する声も多かった。
現役時代の吉田さんは通算1864安打を放ったシュアな打撃の一方、ともに「遊撃の名人」と呼ばれた巨人の広岡達朗と守備力で競った。華麗なグラブさばきで定評のあった広岡に対し、どんな打球にも果敢にチャージする攻撃的なプレーでファンを魅了した吉田さんは「牛若丸」の異名をとった。
2人の守備スタイルの違いは当時、「広岡は絹で、吉田は木綿」と表現された。「打撃は水ものですから、守備でミスをした方が負けますわ。野球の基本は守りです」。野球談義の席で何度も同じせりふを聞いた。
しかし、日本列島を縦ジマ一色に染めた85年の翌年からは3位、最下位と阪神は低迷。「全員一丸野球」が崩壊した責任をとって87年オフ、指揮官の座から退いた。球団首脳が気遣って提案した本人が申し出る形の辞任を「その必要はありません。解任で結構です」と突っぱね、日本一監督の意地をみせた。
わずか3年で日本一の天国から最下位の地獄を経験した首脳陣、選手、球団フロントの親睦グループ「天地会」があった。毎年、シーズンオフに集まって旧交を温めたが、もちろんその中心に吉田さんがいた。「阪神は巨人とともに球界を盛り上げていかんとあきませんな」。野球人として生まれ育ったタイガースを愛し、誰からも親しまれた「よっさん」が天国に旅立った。(元運動部編集委員 西井禎一)