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渡辺恒雄氏の裏にあった読書家の顔 カントとニーチェを人生の支えに

産経ニュース 2024年12月19日 15時12分

読売新聞グループ本社代表取締役主筆で、政界や球界に大きな影響力を持った渡辺恒雄さんが19日、98歳で亡くなった。

渡辺さんは8歳のときに父をがんで、その3年後には3歳上の姉を肺結核で亡くした。昭和18年に旧制東京高校に入学、軍事教練の日々の中で、カントとニーチェを支えに生きた。20年、東京帝大哲学科に入るものの、数カ月後、召集令状が送られてくる。入営前日、自らの葬送曲としてチャイコフスキーの「悲愴交響曲」をかけた。陸軍2等兵を待ち受けていたのは、不条理な精神主義と陰湿な制裁。手元には見つからぬようにカントの『実践理性批判』、ウィリアム・ブレイクの詩集、英和小辞典を置いていた。そんな生活は1カ月で終わる。終戦…。

読売新聞社に君臨した渡辺さんの傲慢ともいえる風貌と物言いからは想像もできない人生の序盤である。

渡辺さんには著書をめぐってインタビューをする機会が2度あった。部下でもなんでもない気楽さもあり、パイプをくゆらせたチャーミングなおじいちゃんと話をしたという記憶だけが残っている。印象深かったのは、きまじめな哲学青年の面影が時折ちらりと顔をのぞかせることだった。自然な流れでカントやヘーゲルの名前が飛び出してくるのだ。渡辺さんはマキャベリストであったが、それだけではない。人生の根本には哲学と文学が絶対に必要だと考えていた。中曽根康弘元首相と盟友関係になったのも、中曽根さんが渡辺さんに劣らぬ読書家だったことがきっかけだった。

インタビューを終えた帰り際、「ちょっと待って」と呼び止められ分厚い本を手渡された。天金の施された博文館の日記帳だった。

「毎年、自分で撮った写真をあしらった日記帳を特注するんだ」

布製の扉を開くと渡辺さんが撮った小鳥の写真があった。自宅マンションのベランダにやってくる小鳥だという。

率直な発言とべらんめい口調がメディアにおもしろおかしく取り上げられ、それが渡辺さんのパブリック・イメージを形成していったが、自己形成の糧となった活字文化をなんとしても守り抜きたいという情熱は強烈だった。活字の力を誰よりも信じていた。たとえば、自民党に不利な報道をするよう指示したテレビ朝日の椿発言事件のあと、新潟市で開催された第46回新聞大会で、椿氏の「テレビのワンシーンは活字の1万語に匹敵する」との発言は、「文字ジャーナリズムに対する許すことのできない侮蔑。ヒトラーのやり方を思い起こした」と渡辺さんは激しい口調でテレビの思い上がりを批判した。

経営破綻寸前だった中央公論社を読売新聞社の子会社にする決断も、金銭の問題ではなく、「活字文化を守りたい」という思いに突き動かされたものだった。

「活字文化というものは、人間の教養の一番基礎的なものでね。たとえば電卓が発達したから子供たちに算術や数学の基礎知識を教える必要はないというのは正しいかどうか。(中略)ドストエフスキーの『罪と罰』、ゲーテの『ファウスト』、あるいはカントの『純粋理性批判』でもいいんだけれど、これをパソコンで読めますか。これは活字じゃなきゃ読めないんですよね。人間の一番基礎的な知性は活字文化によって磨かれるんですよ」

これが持論だった。渡辺さんは新聞の再販売価格維持制度の存続を先頭に立って訴えた。そこには経営感覚だけでなく、「活字文化こそが人間の知性を磨く」という自身に深く根ざした思いがあったのだ。

わが国から得難い役者がまたひとりいなくなった。寂しい。(桑原聡)

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