若者世代を中心に米国発祥の「FIRE(ファイア)」と呼ばれる、悠々自適なライフスタイルが日本でも注目されている。会社員として在職中からコツコツ貯金し、早期退職した後は自分のために時間を費やす人生の過ごし方だ。終身雇用や年功序列といった旧来の働き方に縛られることを嫌い、「ファイア」を選んだ人たちは、どのような日々を送っているのだろうか。
退職後、世界16カ国を周遊
ファイアは「Financial Independence Retire Early」の頭文字をとった造語だ。直訳すると「経済的な自立」と「早期退職」を意味する。
妻と一緒に大阪市内に住む男性(40)は、営業関連会社の執行役員として、年収2千万円の安定した生活を投げ出し、昨年、ファイア生活に入った。理由は明快だ。
「部下が何百人もいて、やりがいもあった。しかし、自分が本当にやりたい仕事ではなかった。『働かないと暮らせないから働く』『理不尽なことも飲み込む』ことに違和感を覚えた。つまり、会社に依存せざるを得ない暮らしがいやだった。たった一度きりの人生、自分が心から望んでいる人生を思い切り生きてみたかった」
男性は早期退職に備え、不動産投資や株式投資などで生活に困らないほどの収入を確保し、経済的な自立にめどをつけた。その資金で昨年は計約16カ国23都市を旅して回った。「もう1回行きたい。貴重で最高な経験だった」と話す。
男性は現在、「人生はポジティブに変えられることを自分の経験を通して伝えたい」との思いから、インターネットでファイア生活を発信したり、自らが経営者となって教育関連事業を立ち上げたりしている。
ひまを持て余すケースも
ただ、必ずしも早期退職後にバラ色の未来ばかり手に入るわけではない。
勤務先を退職し、ファイアを果たした東京都内に住む独身の男性(37)。3年前の退職時には株式投資の利益などで5500万円を貯めた。
男性は、退職した会社について「深夜残業や早朝・休日出勤が当たり前だった。先輩や同僚による無視やパワハラも壮絶だった。勤務中に精神的ストレスで倒れて救急車で運ばれたこともあった」と振り返る。
「だから、心身ともにゆっくりしたかった。ファイアは、死にかけの自分にとっての『命綱』だった」
しかし、自由な時間を手に入れると、ひまを持て余すようになった。「好きなゲームのレベルを上げたり、おいしいものを食べたりしても、自分の価値が変わらないのが悲しかった」。生産性のない、達成感のない空虚なファイア生活に苦悩した。
孤独も感じ、社会とのつながりを欲するようになった。「みんなは週休2日で働いている。自分は『週休7日』。自分だけ立ち止まっているような感覚になり、うつっぽくなった」ため、昨春に宮城県で保険会社に再就職した。
「同僚やお客さん、いろいろな人に仕事を認められた。保険会社は人間関係もよく、仕事を全力で楽しめた。理想の自分を追い求め続けられた」
それでも今年1月、再び都内に戻り、ファイア生活を再開した。最初の失敗を教訓に、保険会社で学んだ経験を生かし、イベントの企画などを通じて人とのつながりを重視する。「いまはめちゃくちゃ楽しい」と声を弾ませる。
『逃げ』だけでは失敗
不動産会社「AlbaLink(アルバリンク)」が昨年行った調査によると、仕事を持つ男女500人を対象に「ファイアしたいか」と聞いたところ、回答のうち「とても思う」が52・6%、「まあ思う」は25・4%。8割近くがファイアを希望していた。
理由(複数回答)を問うと、「仕事や会社から解放されたい」が最多になった。次いで「時間を自由に使いたい」「好きなことをして暮らしたい」、「働き方を選びたい」|などが続いた。
日本人の働く意識や労働環境に詳しい、リクルートHR統括編集長の藤井薫さんは、ファイア予備軍が多いことについて「企業の寿命が短命化している一方で、働いている人は人生百年時代で長く働く。1つの会社に依存しないで活躍したいという意識の変化が背景にあるのだろう」と分析する。
さらに藤井さんは、リモートワークの普及がこうした動きに拍車をかけているとも指摘する。「自分らしい場所で働きたい、大切な人と一緒に暮らしたいという意識が強くなった。これがファイアを目指す動きとつながっているのではないか」
一見、会社に縛られない誰もがうらやむような自由奔放のファイア生活だが、相当な覚悟が求められる。ファイアした大阪市内の男性(40)は指摘する。
「上司が嫌い、仕事がつらいという『逃げ』のファイアは失敗しがちだ。『毎日が夏休み』の生活は必ず半年や1年で飽きる。だから、ファイア後に自分はどう生きたいか、自分にとっての幸せは何か。それを定義しなければ、ファイア生活は成り立たない。決してお金がたくさんあることと、幸福とは比例しない」
藤井さんは、ファイア後に再び会社組織に戻る動きについて、「報酬以外にも多くの人と協力したり、社会とのつながりを感じたりする『働く』という意味を改めて感じた人が戻っているのではないか」と分析する。(植木裕香子)