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<独自>山崎の戦い敗北後に明智光秀の家臣が放火した遺構か 京都・周山城で赤い石垣出土

産経ニュース 2024年12月11日 16時36分

16世紀後半、戦国武将の明智光秀が丹波支配の拠点に築いた本格的山城「周山城(しゅうざんじょう)」(京都市右京区)の二之丸跡から、火災を物語る赤く変色した石垣が出土した。天正10(1582)年の山崎の戦いで光秀の敗退後、その家臣が城を焼いたとの記述とも一致し、調査した京都市文化財保護課は「記述を裏付けた遺構の可能性が高い」としている。

周山城は京都、兵庫両府県にまたがる丹波地域を攻略した光秀が天正9(1581)年ごろに築いた東西約1・3キロ、南北約0・7キロにおよぶ尾根筋に曲輪(くるわ)と石垣を設けた城郭だ。山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れた2年後の天正12年に破却されており、実態には謎が多い。

京都市は平成29年度から調査を進め、今回は今月13日まで、城の構造を明確にするため、本丸と二之丸をつなぐ大手道の出入り口周辺の約100平方メートルを調査。11段分の階段や四足門が設置されたことが分かる礎石(そせき)、曲輪の南面に沿って設けられた石垣が東西約7メートルにわたり見つかった。

火災の跡は石垣とその周囲の地面、さらに曲輪内にある御殿とみられる建物跡の周辺から出土した。いずれも赤または茶に変色していた。

地元の歴史を伝える「坂上谷文書」には、山崎の戦いの敗北から約2週間後、光秀の家臣が周山城を焼いたことが記されている。

今回の結果について京都市文化財保護課は「変色した石垣と土は記述を裏付けた遺構の可能性が高い」と指摘。焼け跡から炭化した柱などの遺物は見つからなかったが、その理由については「山崎の戦いの後に入城した秀吉方の武将、加藤光泰が片付けたのでは」とみている。

また、石垣は自然石をそのまま積む野面(のづら)積みだが、表面は平らな部分で丁寧にそろえられていた。石垣に連なり出土した門跡は本丸の入り口にあたる「大手門」とみられ、門前の階段脇に宝篋印塔(ほうきょういんとう)用の巨大な方形石を配して見栄えと権威が演出されていた。

滋賀県立大の中井均名誉教授(日本考古学)は「美しい門と石垣から、築城の名手としての光秀の手腕がしのばれる。火災跡は範囲は限られ、失火の可能性も残るが、破城前の出来事には間違いない」と話した。

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