一口に書を見るといっても、その時々の立場や目的によっておのずから見方が違う。まず一つは書展の審査会のように多人数で、同時に書作品としての良さを判定する場合である。
この場合は見て瞬時に判断を下さなければならない。作品全体から何かしら好もしいものが感じられるかどうかを見る。もちろん部分を細かに見ている余裕はない。一般の人からみたらあまりに直感的、主観的に過ぎるのではないかと思われるかもしれないが、本来、書の本質は一目でわかる性質のものである。
古い例だが、中国唐代の書論家、張懐瓘(ちょうかいかん)の「深く書を識る者は、惟だ神彩を見て字形を見ず」という言葉がそれをよく表している。
二つ目は美術館などで鑑賞する場合。この場合は主観的に好き、嫌いで見るのも一向に構わない。気迫を感じるとか、ゆったりとしてのびやかとか、リズム感がいいとか、そんな素朴な見方でいい。また、どんな言葉が書かれているかは気になるところだが、見るときの必須条件ではない。しかし全くは無視できないところに書の造形性と意味性のこんがらがりがある。
三つ目は臨書するために見る場合。書の形や線は見ればわかりそうなものであるが、書いてみて初めてそれと分かることがよくある。
見ては書き、書いては見比べる行為を通して細かな観察が可能となる。さらに細かに見たいときは、臨書の原本をスマホに撮って拡大してみたら驚きの世界が現れるかもしれない。
(産経国際書会名誉理事長 風岡五城)
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