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福田和也さんを悼む 小林秀雄、江藤淳の衣鉢を継ぐという強い使命感   モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら(186)

産経ニュース 2024年9月28日 11時0分

言葉は詰まり「無頼」の面影なく

文芸評論家で慶応大名誉教授の福田和也さんが亡くなってしまった。63歳。いくらなんでも早すぎる。

福田さんと最後に会ったのはおよそ6年前のことだった。産経新聞社の取締役から「江藤淳さんの全集を産経で出せないだろうか」との相談を受け、「ならば江藤さんの弟子だった福田さんに相談してみるのがいいと思います。まず会いませんか」と答えた。すぐさま福田さんに連絡を取り、上野のうなぎ屋で顔を合わせた。

衝撃的だった。頰はげっそりとこけ、手はブルブル震え、言葉もなかなか出てこない。そこには毎月100冊読み、文学、歴史、政治、社会など多岐にわたるテーマで毎月300枚もの原稿を書き、夜な夜な乃木坂(東京都港区)あたりでたっぷり飲み食いしていたころの「無頼」とでもいうべき福田さんの面影はまったくなかった。全盛期のめちゃくちゃな暮らしぶりで痛めつけられた肉体が、主である福田さんに復讐(ふくしゅう)を始めたのか、と感じた。

そんな状態でも足を運んでくれたのは、師匠だった江藤さんにかかわる用件だったからに違いない。そうでなければきっと断られていたと思う。残念ながら福田さんの話は要領を得ず、会は何の実りもなく、2時間でお開きとなった。うなぎ屋を出て、危なげな足取りで去ってゆく福田さんの痩せた後ろ姿を鮮明に覚えている。

江藤淳全集の企画はこのように最初から躓(つまず)き、取締役が異動となってうやむやとなってしまった。

対独協力作家を独自の視点で描く

福田さんの処女作は、平成元年の暮れに出版された『奇妙な廃墟』(国書刊行会)だ。慶応の大学院時代から7年もの歳月を費やして執筆したという。フランスにおける反近代主義の作家たちと、その系譜に連なる「コラボラトゥール」の作家たちを論じ、共通理解となっていた近代フランスの歴史観に異議を唱える作品である。

コラボラトゥールの作家たちは、フランスではいまなお忌み嫌われ、日本においてはほとんど関心をはらわれることがない。前例のないテーマに挑んだ処女作を読んだ江藤淳さんは、福田さんに屹立(きつりつ)した才能を認め、以降師弟のような関係を結ぶ。国書刊行会は、日本人にとってほとんど知られていないフランスの作家たちを論じた、まだ無名だった福田さんの作品をよくぞ出版したものだと思う。同社の英断がなければ、屹立した才能は埋もれたままになっていた可能性がある。

ここで少しばかり説明を加えておこう。反近代主義とは、近代科学が生み出した物質文明への嫌悪、近代文明が創出した人権や平等といった普遍的と信じられている価値観への疑義、民主主義や放任資本主義そのものと、それを中心に形成された社会システムに対する反感などを特徴とする思想だ。そしてコラボラトゥールとは、ドイツ占領下のフランス(1940~44年)で対独協力の道を選んだフランス人のことだ。

福田さんが同書で取り上げた作家、すなわち、崩れゆく「よきフランス」を守りたいと、反近代主義の系譜に連なり、自ら対独協力の道を選んだ者の何人かは、戦後の裁判で死刑判決を言い渡された。

こんな処女作に福田さんが真剣に取り組んでいたのは、日本経済がバブル化する時代だった。企業も個人もこぞって、己の物質的欲望を満たそうと狂奔する姿がそこかしこにあった。おそらく福田さんは、そのような日本人を育んだ戦後日本のありように対して、激しい憤りを募らせていったのではないか、と私は考えている。

その後の多岐にわたる作品群、たとえば『地ひらく 石原莞爾と昭和の夢』や『山下奉文 昭和の悲劇』も、『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』や『総理の値打ち』も、すべてこの作品から派生したのだ。福田さんは、連合国軍総司令部(GHQ)によって与えられ、その後の日本を覆い続ける平板な価値観に揺さぶりをかけようとした。

処女作はその後、版元を変えて「ちくま学芸文庫」に収められたが、現在は品切れ状態となっている。ぜひ復刊をお願いしたい。

ぼくには文学が生きていくよすが

別の視点から福田さんを語りたい。

福田さんは平成15年、坪内祐三さん、柳美里さん、リリー・フランキーさんとともに季刊文芸誌「en―taxi」を創刊した。版元は扶桑社だ。この雑誌からは、リリーさんの『東京タワー オカンとボクと、時々、オトン』や、立川談春さんの『赤めだか』という名作が生まれた。

創刊直後、私のインタビューに応じてくれた福田さんは、新雑誌にかける意気込みをこう語っている。

「日本の近代文学は、小林秀雄の時代の文学があり、江藤さんの時代の文学があった。自分が生きているときに、日本の文学が駄目になって終わってしまうのは我慢ならない。できることがあれば何でもやって支えるというのが批評家の役目。この雑誌で、文芸の世界は面白いらしい、ゾクゾクするらしいと感じてくれるとうれしい」

ここには文芸評論家として、小林、江藤の衣鉢を継ぐという強い使命感がにじむ。平成11年に江藤さんが自死した翌年、現代作家の小説を100点満点で採点した『作家の値うち』(飛鳥新社)という爆弾を文壇に投げ込んだ。テロリストのような行為はいかにも福田さんらしい。文壇に緊張感をもたらしていた江藤さん亡きあと、この自分が目を光らせているぞという示威行為だ。

直木賞に何度もノミネートされながら受賞できなかった筒井康隆さんが、その恨みつらみを晴らそうとするように書いたのが『大いなる助走』であり、その標的は文壇のドンとみなされていた江藤さんだったと言われる。当時の文壇にはそんな緊張感があった。福田さんはかなり乱暴な手法で緊張感を取り戻そうとしたのだ。爆弾投下に対して、文壇では強烈な非難の合唱が起こった。福田さんはそんなことは百も承知であり、そんな反応こそを期待していたのだと思う。

もっとも印象に残っているのが次の言葉だ。

「文学にこだわるのは、ぼくにとって文学が生きていくよすがだから。それがあるから何とかやってくることができた。生きていく意味なんてよく分かりませんが、あるとすれば、作品の中の同じ言葉でも20歳と40歳のときでは感じ方が異なってくるということ。つまり、年齢を重ね、言葉にブレを感じること、それが生きていく意味ではないかと」

この言葉を読み返し、不覚にも涙がにじんできた。福田さんにはもっともっと年齢を重ね、言葉にブレを感じてほしかった。(桑原聡)

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