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1200年前、遷都時の遺構が出土した平安京 わずかな「誤差」が語る桓武天皇の都市計画

産経ニュース 2025年2月2日 10時0分

今から1200年余り前に桓武(かんむ)天皇が遷都した当初の平安京の築地塀跡が、京都市中京区の共同住宅建設予定地から出土した。遷都以来、開発が続いた平安京で遷都当初の遺構の出土は極めて珍しい。驚くべきはその〝精度〟だ。遺構の出土位置を、法令などから想定される平安京の復元モデルと重ね合わせてみると、誤差は約60センチしかないことが判明。その一方、このわずかな誤差からは、造営を巡る天皇側の基本的な施工方針が透けてみえる。

遷都当初の築地塀跡

今回の調査地は、平安京では左京二条二坊十町にあたり、京の中心施設・平安宮の東約300メートルという一等地。14世紀に編纂(へんさん)された百科事典「拾芥抄(じゅうがいしょう)」によると、当初は桓武天皇の子、賀陽(かや)親王の邸宅「賀陽院」とされ、後に藤原道長の長男、藤原頼通の邸宅「高陽院(かやいん)」となった。

昨年5~6月、同住宅の建設に伴い、民間団体「平安京調査会」が約160平方メートルを調査したところ、頼通時代の建物の礎石、池跡が出土したほか、大炊御門(おおいみかど)大路(現在の竹屋町通)跡やそれに付随する溝、築地塀の跡などが出土した。

一緒に出た土器などから道路、溝、築地塀跡は遷都間もない9世紀に入ってすぐの遺構と分かった。桓武天皇が延暦13(794)年に遷都して以来、開発が繰り返された平安京跡で、遷都当初の遺構が出土するのは極めて珍しい。

道路に付随する側溝(そっこう)跡の幅は0・9メートル。築地塀跡は黄色の硬い土が盛られた土台部が残り、幅は1・9メートルと確認できた。そして、築地塀跡と側溝跡の間に設けられている空閑地「犬走(いぬばしり)」跡の幅は1・0メートルと分かった。

正確な都づくり

今回の遺構の出土位置を、文献や法令などを基につくられた平安京の復元モデルと照らし合わせる。すると、築地塀の中心は想定から南にわずか0・62メートルにずれていたのみで、平安京調査会は「ほぼ正確な位置に施工されている」と評価する。

しかし、ここで一つの疑問が浮上した。

碁盤の目状の条坊制を採用する平安京での土地区画を巡り、行政側が塀の位置だけでなく、あらかじめ法令で道路や溝、塀の規格を定めている。しかし、その規定と今回の遺構のサイズが、明らかに異なっているのだ。

10世紀初頭に編纂された法令集「延喜式」に収められ、京内の道路や溝、築地塀などの規格を記した「京程(きょうてい)」によると、大炊御門大路の道幅は22・8メートル、溝(側溝)1・2メートル、築地塀1・8メートル、犬走1・5メートル。犬走の誤差が最も大きいことが分かる。

平安調査会によると、京の範囲(東西4・5キロ、南北5・2キロ)でみると、まさに「誤差の範囲」。さらに、このわずかな誤差の中に、平安京の造営の基本方針がにじむのだという。

帳尻合わせ

平安京の歴史に詳しい同志社女子大の山田邦和特任教授(考古学)によると、行政側にとって、土地を住人に正確に分け与えるために必要なのは、土地を120メートル四方の正確な碁盤の目に区画すること。正確な位置に道路を敷設することは不可欠だ。

このため道路や道路側溝の敷設には国が関与するのだが、予算の関係上、築地塀の設置・管理費は、都の中央を南北に通る朱雀大路の両側など一部を除き、土地の所有者が負担していたのだという。

今回の例を見ると、築地塀の位置の誤差を、犬走の幅を通常より0・5メートル狭めることで「調整」していたことが分かり、きっちり帳尻合わせをしていたのだ。

こうした例は他にもみられる。例えば洪水が起こりやすく、湿地帯を多く抱える右京。南北道の皇嘉門(こうかもん)大路では犬走を設けず、塀のすぐ横に規定より幅の広い側溝を敷設し、大量の水に対処しようとした跡も見つかっている。

犬走の自由な設計こそが、正確な都づくりの一つのポイントになっていたのかもしれない。山田特任教授は「今回の発見は平安京の造営時の姿をうかがわせ、その後も重要な場所だったことを知る史料になった」と話した。(園田和洋)

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